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金化郡(キムファぐん、キムァぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国江原道に属する郡。軍事境界線に接する。
朝鮮戦争によって郡域が分断された。かつての郡中心部(本来の金化邑)は、大韓民国側の江原特別自治道鉄原郡にある。
1邑・1労働者区・13里を管轄する。
高句麗時代、この地域には夫如郡・母城郡という2つの郡があった。統一新羅時代には夫如郡が富平郡と改称され、母城郡が益城郡と改称した。富平郡は鉄原郡金化邑、益城郡は金化郡人民委員会付近に比定されている。高麗時代の1018年、富平郡は金化郡に、益城郡は金城郡に改称した。その後それぞれ県に降格され、朝鮮王朝時代は江原道に属する金化県・金城県として続いた。
第二次世界大戦後、北緯38度線以北の金化郡は、全域が北半部の政体の実効統治範囲となった。
朝鮮戦争末期には、鉄原・平康と金化とを結ぶ一帯が「鉄の三角地帯」と呼ばれる激戦地になった。1952年、北朝鮮は行政区画の統廃合を行った。これにより金化郡は一度廃止され、昌道郡に編入された。
1954年、昌道郡から昌道里(従来の昌道邑)・金城里などを含む地域が分割され、金城里を人民委員会所在地(金化邑)として、金化郡が再設置された(1邑19里)。
この節の出典[7]
大韓民国政府の立場では、1952年の統廃合も含め、朝鮮民主主義人民共和国政府が統治下で行った行政区画の変更を認めておらず、「以北」では1945年8月15日時点の行政区画が凍結されている。朝鮮戦争により、かつての金化郡域の南部にあたる1邑7面(金化邑・西面・近北面(一部)・近東面・近南面・遠東面(一部)・遠南面・任南面(一部))は韓国の実効支配地域に入った。
1954年10月21日に韓国政府は収復地区臨時行政措置法により、地方行政機関としての金化郡を再建した。このため、韓国の行政区画としての江原道金化郡が存在することとなった。1963年に韓国が実効統治する金化郡地域は鉄原郡に編入され、韓国統治下の金化郡は消滅した。現在の鉄原郡東部が旧金化郡域にあたる。なお、旧金化郡域は大部分が民間人出入統制区域となるため、定住人口があるのは金化邑・西面・近北面・近南面のみであり、金城郡地域は軍事境界線に接する無人地域となっている。
なお、かつての金化郡のうち北朝鮮側に帰属した部分については、以北五道委員会の下で金化郡が存続し、名誉職の郡守・面長が任命されている。場合によっては北朝鮮側も鉄原郡に編入されたとみなすことがある。[8]
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