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1924-2012, 実業家、作家、経営コンサルタント。 ウィキペディアから
邱 永漢(きゅう えいかん、1924年3月28日 - 2012年5月16日)は、日本および台湾の実業家、作家、経済評論家、経営コンサルタント。株式会社邱永漢事務所代表取締役。
旧本名は邱炳南、帰化後の本名は丘永漢。初期の筆名は邱炳南および丘青台。株の名人で「金儲けの神様」と呼ばれた。日本亡命後に筆名「邱永漢」を使うようになり、この筆名は戦前の台湾文学界で活躍した作家の西川満がつけたという説があるが、邱本人が否定している[1]。
1924年3月、婚外子として日本統治時代の台湾台南市に生まれる。10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人。
1937年、13歳のとき台北高校尋常科に入学。このころから文学に志して自ら詩を書き、個人雑誌『月来香』を発行。16歳で「台湾詩人協会」の普通会員(最年少)となり、邱炳南名義で詩作を西川満が主宰する『華麗島』創刊号に発表。台北高校の同窓に李登輝がいた。
1943年10月、東京帝国大学経済学部入学。これについて本人は「文学部ではなく経済学部を選んだことは学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。私の文学かぶれはあまねく全校生徒に知れ渡っており、私が文学部にすすむのは当然のことと思われていたからである。私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が将来、文学を志しても生計を立てていく自信がなかったからである」(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)と記している。しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。
1944年3月 邱の友人の冗談を真に受けた麹町憲兵隊によりスパイ容疑で逮捕されたが1週間で釈放。このころ、経済学部の定期試験で満州国の統制経済について問われ、日本の満州支配を経済学的に批判したところ、不穏思想の持ち主として退学処分になりかけたこともある。
1945年に東京帝国大学経済学部を卒業後、大学院で財政学を研究。大学院時代に東大社会科学研究会(のちの全学連の母体)を創設し、当時まだ珍しかった世論調査を実行した。1946年に大学院を中退して台湾に戻り、土建会社経営や中学の英語教師や銀行のシンクタンク研究員を経験。砂糖の密輸に手を出して逮捕されたこともある。
1948年、台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港に亡命。日本統治時代から台湾を代表する知識人とみられていた廖文毅 (りょうぶんき、1910-)が国民党政府を批判して書いた「台湾に国民投票を実施するための請願書」を英語に翻訳し、欧米のメディアに掲載させたことで、当局が犯人さがしをはじめたことがきっかけだった[2]。香港では廖の秘書をつとめ、日本に移った廖のあとを追うように日本に渡る[3]。廖は日本で台湾独立組織をつくり、「台湾共和国臨時政府」の臨時大統領に就任[4]。ただし、邱自身は、日本に渡ったのは独立運動のためではなく、娘の病気の治療のためだと語っている[4]。
香港への亡命時代、物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業を始めて成功を収めた。1950年には月収が当時の金で100万円に達し、香港で高級マンションに住まい、運転手つきの自家用車を乗り回す身分となった。
このころ、友人の窮状を題材に処女作「密入国者の手記」を執筆した。1954年1月、西川満の紹介により「密入国者の手記」が『大衆文芸』1月号に掲載される。「密入国者の手記」は、邱の友人であり、台湾独立運動の創始者である王育徳の日本亡命の経緯を描いたものである[5]。
「密入国者の手記」が山岡荘八や村上元三から評価され、『大衆文芸』誌で作家デビュー。同1954年4月、事業が傾いたのを機に、娘の病気の治療と文学修行を兼ね、日本に移住した。檀一雄が怪我で入院したことを知り、入院先に押しかけて、日本の敗戦から国外逃亡・日本への亡命などの経験を元にした自伝的な短編作品を売り込んだ[6]。「異常な体験をしたせいで文学的貯金があった」とのちに語った[6]。同年12月、檀一雄と佐藤春夫の後押しで『濁水渓』を現代社から上梓、直木賞候補となる。1955年に小説『香港』で第34回直木賞を受賞。外国人として最初の直木賞受賞者である。
1967年から1969年まで、邱が経営する株式会社求美が出資して、雑誌話の特集を刊行していた[7]。
1971年には、ニクソンショックによる台湾の政情変化を受けて国民党と和解。台湾政府に乞われ、経済建設を支援すべく台湾に帰って国家事業を指導。このため一部の人々から「カネ欲しさに国民党に魂を売った」と非難された。台北に残る邱永漢ビルはこの時期に建てたものである。やがて事業不振のため日本に再移住。第一次石油危機では大損害を蒙り、胃を患い入院したことがある。
1980年3月、家族と共に日本国籍を取得。その直後の第12回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが15万票しか取れず下位落選した。
1993年11月4日、台北から香港(当時は啓徳空港)まで乗っていた中華航空のジャンボ機が空港の滑走路をオーバーランし海に突入する事故を起こすも、生還(ちなみにこの事故は全員が生還している)。
当時まだ金銭について語るのを賤視していた日本の社会風潮に抗して、みずからの経験に基づき『金銭読本』『投資家読本』など蓄財に関する実用的評論を発表した。1960年頃には200万円の元手で株を始めて1年で5000万円に増やしたこともある。しかし作家としての邱は、小林秀雄ら文壇の芸術至上主義者からは徹底して白眼視された。
実業家としてはドライクリーニング業・砂利採取業・ビル経営・毛生え薬の販売などを手掛けた。東京には邱経営の中国語教室も存在した。日本におけるビジネスホテル経営の元祖でもあった。また中国ではコーヒー栽培事業のほか、建設機械販売、高級アパートメント経営、パン製造販売、レストラン経営、漢方化粧品・漢方サプリメント販売、人材派遣業、日本語学校などの事業を営んでいた。
大の食通としても有名。若い頃から糖尿病を患っており、病気との付き合い方を巡る文章も多い。
夫人の潘苑蘭は広東生まれの中国人で料理研究家。実の姉の臼田素娥も料理研究家。素娥の娘の臼田幸世も料理研究家でNHKの「きょうの料理」などテレビの料理番組に出演。素娥の夫の臼田金太郎は元オリンピックボクシング日本代表選手で元プロボクシング日本王者。長女の邱世嬪(きゅう さいぱん、1952年12月21日 - )は占星術研究家でエッセイスト。長男の邱世悦は不動産会社を経営、次男の邱世原(きゅう せいげん、1957年1月8日 - 2006年4月8日)はビデオアーティストとして著名。
2015年4月、遺族3人が東京国税局から遺産20数億円の申告漏れを指摘された。また2013年までの2年間に配当約10億円を所得として報告していなかった[10]。
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