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羽仁 説子(はに せつこ、1903年4月2日 - 1987年7月10日)は、日本の教育評論家、社会運動家。息子は映画監督の羽仁進、娘は羽仁協子。
羽仁吉一、羽仁もと子の娘として東京に生まれる。自由学園を卒業、『婦人之友』記者、自由学園教授などを務める。森五郎(羽仁五郎)と結婚。
1945年11月、羽仁、加藤シヅエ、宮本百合子、佐多稲子、山本杉、赤松常子、山室民子、松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始[1]。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[1][2][3]。初代委員長には松岡が就いた[4]。
1952年、日本子どもを守る会の発足に参加、1958年 - 1988年同会第2代会長。中産階級的リベラリズムの立場にたち、女性運動、児童福祉、性教育などに活動、発言した。
1960年に行われた参議院千葉県補欠選挙に無所属で立候補するが落選した。
1962年4月14日、安保闘争に関わった女性たちによって「日本婦人会議」が設立され[5]、議長には羽仁、田中寿美子、松岡洋子、岸輝子、深尾須磨子、高田なほ子、野口政子、田所八重子ら8人が就任した[6]。
同年10月19日、羽仁、平塚らいてう、いわさきちひろ、野上弥生子、岸輝子、桑沢洋子、櫛田ふき、深尾須磨子、壺井栄ら32人の女性の呼びかけにより「新日本婦人の会」が結成された[7][5]。
進歩的文化人として活躍した羽仁だったが、戦時中は「女性にとって協同生活への関心は天性のものである。扶けることの喜びを無上の幸福とする心、それはわが子、わが夫のために犠牲となることの出来る心である」(昭和十九年三月『教育』誌掲載)、「赫々たる皇軍の戦果が伝えられるたびに私ども女性は深く思いをめぐらして祖国の明日のために、大いなる国力を貯えねばならないという責任をひしひしと感じます。それが戦いの庭にたたぬものの使命であると信じます」(昭和十七年四月『愛情』誌掲載「大東亜戦争下に於ける婦人の使命」)という発言をしていた。羽仁に対し、『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』(全貌社、昭和32年)は「女性の犠牲心を説いた婦人評論家」という副題を付けている。
説子は五郎と結婚する前に、肺を病む男性を慕っていたが、母のもと子の説得(「母の激しい干渉」)により彼との仲を断念する。この失恋について作家の森まゆみは、「娘は母との激しい葛藤を経て自立していくが、説子にもそうした時期があったことを知って、筆者は納得と安堵を感じる。説子があの影響力の強い、カリスマである母もと子から別れ、自由学園という事業を継承せず、評論家として自立したことはそういう経緯があったからだろう」と記している[8]。
1987年7月10日、死去。墓所は雑司ヶ谷霊園。
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