赤松常子

日本の政治家 ウィキペディアから

赤松常子

赤松 常子(あかまつ つねこ、1897年8月11日 - 1965年7月21日)は、日本の労働運動家政治家参議院議員(3期)。日本社会党初代婦人部長。

概要 生年月日, 出生地 ...
赤松 常子
あかまつ つねこ
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1930年2月2日撮影
生年月日 1897年8月11日
出生地 山口県都濃郡徳山村(現・周南市
没年月日 (1965-07-21) 1965年7月21日(67歳没)
死没地 静岡県田方郡韮山町
出身校 京都女子専門学校
所属政党日本社会党→)
右派社会党→)
(日本社会党→)
民主社会党
称号 正四位
勲二等宝冠章
親族 赤松智城(兄)
赤松克麿(兄)

参議院議員
選挙区 全国区
当選回数 3回
在任期間 1947年5月3日 - 1965年6月1日
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来歴

山口県都濃郡徳山村(現・周南市)生まれ[1]。祖父は徳応寺住職の赤松連城。兄に宗教学者の赤松智城、衆議院議員の赤松克麿がいる。

徳山高等女学校(現山口県立徳山高等学校)を経て[2]1913年京都女子専門学校入学。在学中は、賀川豊彦の社会事業に協力[2]。その後、2年で大学を中退[2]1923年、上京し労働運動に取り組む[2]。同年9月に発生した関東大震災における賀川豊彦の罹災者救済活動に協力[1]

1925年日本労働総同盟婦人部にはいる。この間、野田醤油労働争議に参加[1]1940年、日本労働総同盟は自主解散し、大日本産業報国会に組み入れられた。

1945年11月21日に治安警察法が廃止され、結社権が復活。次いで同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により女性の国政参加がついに認められ、11月から12月にかけて誕生した日本社会党日本自由党日本進歩党日本協同党、および再建された日本共産党の間で、女性議員候補の獲得合戦が始まった。各党は競い合うように「婦人部」をつくり、その部長として著名人の取り込みも始めた。赤松は11月2日に結成された日本社会党の婦人部長に就任した[3][4]

同月、赤松、羽仁説子加藤シヅエ宮本百合子佐多稲子山本杉山室民子松岡洋子の8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始[5]。準備会が重ねられ、1946年3月16日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[5][6][7]。初代委員長には松岡が就いた[8]

1946年日本労働組合総同盟ゼンセン同盟の結成に努力[1]

1947年第1回参議院議員通常選挙全国区から日本社会党公認で立候補し、初当選。1948年、芦田内閣厚生政務次官

1960年1月24日、社会党を離党した西尾末広らによって民主社会党(民社党)の結党大会が開かれ、赤松を含む参議院議員16人、衆議院議員38人が結党に参加した[9]

1961年4月13日、民社党系の女性団体「日本婦人教室の会」(のちに「日本民主婦人の会」に改称)が設立され、赤松は会長に就任した[10][11]

1965年7月21日静岡県田方郡韮山町の温泉で死去[1]。死没日をもって勲二等宝冠章追贈、正四位に叙される[12]

家族

脚注

参考文献

外部リンク

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