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1908-1973, 俳優。 ウィキペディアから
織田 政雄(おだ まさお、1908年1月6日[1] - 1973年8月30日)は、東京都出身の俳優。本名は斎木 政雄[1]。後名は織田真佐男。
戦前は舞台俳優として活動し、戦後から多くの映画やテレビドラマに出演した。その地味な風貌から脇役ばかりを演じたが、名監督の一流作品に起用され[4]、日本映画黄金期の中で約150作以上の映画に出演した。
1908年(明治41年)1月6日、東京市牛込区早稲田(現在の東京都新宿区)に生まれる。6歳で舞台に立ち、後に東京府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)を卒業[5]。
1930年(昭和5年)、尾上菊五郎が創設した日本俳優学校に第一期生として入り[1]、卒業後の1934年(昭和9年)に日本俳優学校劇団に参加した[6][5]。同期生に三津田健、植村謙二郎らがいる。同劇団退団後は、関西新派を経て井上正夫主宰の井上演劇道場に入ったが、1946年(昭和21年)に井上とともに新協劇団に移り、井上の新派復帰後も同劇団にとどまった[5]。1950年(昭和25年)、真山美保らと劇団ヴェリテ・せるくるを結成[5][3]。その後フリーとなり、ラジオドラマを中心に活躍していた[5]。
1953年(昭和28年)、亀井文夫監督の『女ひとり大地を行く』で本格的に映画に出演し[4]、今井正監督『真昼の暗黒』といった独立プロ映画に出演する一方[7]、日活と契約を結んで『警察日記』などにも出演し[8]、まもなくフリーとなる。地味な風貌から目立つことのない役柄ばかりを演じているが[4]、川島雄三監督『幕末太陽伝』、木下惠介監督『楢山節考』、小津安二郎監督『秋刀魚の味』、今井正監督『武士道残酷物語』など、名監督たちの一流作品に立て続けに出演している[9]。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』にも出演した[9]。1960年(昭和35年)には『笛吹川』と『濹東綺譚』の演技でブルーリボン賞助演男優賞を受賞した[10]。一方、テレビドラマにも数多く出演している。
1964年(昭和39年)2月、田坂具隆監督の『鮫』の出演準備のため列車で京都へ移動中に脳血栓で倒れ、以後は自宅療養の日々が続いた。この間に芸名を織田真佐男に改名するも俳優活動は行えなかった。しかし、1968年(昭和43年)にテレビドラマ『特別機動捜査隊』の第362話「車椅子」にゲスト主演して再起。これは番組の7周年を記念して織田の再起を応援するために企画されたもので、左半身が不自由な中車椅子に座って出演したが、これが最後の出演作品となった[要出典]。
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