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この項目では、明治時代に存在した(初代)筑豊鉄道について説明しています。大正・昭和時代に同名を称した鉄道事業者については「筑豊鉄道 (2代)」をご覧ください。 |
筑豊鉄道(ちくほうてつどう)は、かつて福岡県に存在した鉄道事業者である。日本の民営鉄道創生期における最も代表的な産業鉄道企業[3]。
筑豊で産出される石炭の輸送を目的に、1891年に筑豊興業鉄道(ちくほうこうぎょうてつどう)として設立され、今の筑豊本線などを建設した会社が1894年に改称したもの。1897年に九州鉄道へ合併され、1907年に鉄道国有法により国有化された。
- 1888年(明治21年)7月30日:筑豊興業鉄道[4]に対し鉄道線路測量仮免状下付(穂波郡飯塚村-遠賀郡若松港間、鞍手郡直方町-田川郡赤池村間)[5]
- 1889年(明治22年)
- 7月12日:鉄道布設免許状下付(遠賀郡若松港-鞍手郡直方町-穂波郡飯塚町、直方町-神田村間)[6]
- 8月21日:鉄道線路測量仮免状下付(田川郡神田村-添田村間)[7]
- 1890年(明治23年)11月19日:鉄道布設免許状下付(田川郡神田村-同郡伊田村)[8]
- 1891年(明治24年)8月30日:若松 - 直方間開業[9]
- 1892年(明治25年)10月28日:直方 - 小竹間開業[10]
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)
- 2月16日:私設鉄道仮免状下付(鞍手郡勝野村-穂波郡大谷村間)[16]
- 7月31日:私設鉄道仮免状下付(飯塚停車場-福岡県下白井間他)[17]
- 8月15日:筑豊鉄道に社名変更
- 12月21日:折尾-中間間、植木-直方間複線化[18]
- 12月28日:小竹 - 幸袋 - 幸袋炭坑間開業[19]
- 1895年(明治28年)4月5日:飯塚 - 臼井間開業[20]
- 1896年(明治29年)
- 4月29日:若松-折尾間複線化[21]
- 5月9日:私設鉄道免許状下付(白井停車場-熊田間)[22]
- 5月16日:私設鉄道仮免状下付(金田停車場-豊州鉄道伊田停車場間、熊田村下山田-同村上山田間、金田停車場-糸田村間)[23]
- 7月31日:私設鉄道仮免状下付(福岡県石峰-戸畑間)[24]
- 1897年(明治30年)10月1日:九州鉄道に合併
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年度 |
乗客(人) |
貨物量(トン) |
営業収入(円) |
営業費(円) |
益金(円) |
1891 | 111,025 | 55,468 | 28,674 | 24,213 | 4,461 |
1892 | 193,676 | 183,372 | 113,510 | 68,436 | 45,074 |
1893 | 335,576 | 545,714 | 265,129 | 164,159 | 100,970 |
1894 | 440,510 | 991,107 | 506,274 | 187,957 | 318,317 |
1895 | 577,432 | 1,307,056 | 677,859 | 277,534 | 400,325 |
1896 | 761,263 | 1,412,842 | 759,201 | 344,611 | 414,590 |
1897 | 545,440 | 822,430 | 455,728 | 210,156 | 245,572 |
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出典: (『鉄道局年報 明治38年度』, 「官私設鉄道運輸延哩程累年表」「官私設鉄道営業収支累年表」/ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
蒸気機関車
1897年の九州鉄道への合併時点で、次の9形式30両が在籍した。山陽鉄道から譲り受けた2両以外は、すべてアメリカのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス製であった。
- 1
- 1889年米ボールドウィン製。車軸配置0-4-0 (B) のサドルタンク機 → 九州鉄道71形 (71)
- 2
- 1889年米ボールドウィン製。車軸配置0-4-2 (B1) のリアタンク機 → 九州鉄道72形 (72)
- 3, 4, 10-14, 17-19, 27, 28
- 1890-1895年米ボールドウィン製。車軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機 → 九州鉄道73形 (73, 74, 80-84, 87-89, 97, 98) → 鉄道院3300形 (3306-3317)
- 5, 6
- 1880年英バルカン・ファウンドリー製。車軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。旧山陽鉄道25, 27 → 九州鉄道75形 (75, 76) → 鉄道院700形 (715, 700)
- 7, 8, 15, 16, 29, 30
- 1892-1895年米ボールドウィン製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機 → 九州鉄道77形 (77, 78, 85, 86)・99形 (99, 100) → 鉄道院8000形 (8000-8005)
- 9
- 1892年米ボールドウィン製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機 → 九州鉄道79形 (79) → 鉄道院8050形 (8050)
- 20, 21
- 1894年米ボールドウィン製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機 → 九州鉄道90形 (90, 91) → 鉄道院1320形 (1320, 1321)
- 22-24
- 1895年米ボールドウィン製。車軸配置0-8-0 (D) のタンク機 → 九州鉄道92形 (92-94) → 鉄道院4030形 (4030-4032)
- 25, 26
- 1895年米ボールドウィン製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機 → 九州鉄道95形 (95, 96) → 鉄道院1010形 (1012, 1013)
客車
1897年の九州鉄道への合併時点で特等並等混合客車(定員37人)6両、並等客車(定員50人)7両、並等緩急合造車(定員45人)2両、並等緩急郵便合造車(定員27人)5両、並等郵便合造車(定員45人)2両の合計22両であった[25]
貨車
1897年の九州鉄道への合併時点で無蓋貨車横開六屯積298両、木製底開貨車六屯積300両、鉄製底開貨車六屯積400両、有蓋貨車五屯積24両合計1022両であった[26]
車両数の推移
さらに見る 年度, 機関車 ...
年度 | 機関車 | 客車 | 貨車 |
1891 | 4 | 8 | 100 |
1892 | 6 | 8 | 280 |
1893 | 14 | 19 | 496 |
1894 | 21 | 19 | 700 |
1895 | 35 | 22 | 762 |
1896 | 30 | 22 | 1,022 |
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出典: (『鉄道局年報 明治38年度』, 国立国会図書館デジタルコレクション)
明治23年の役員[3]
- 社長
- その他
- 林芳太郎(福岡県会議員)
- 下沢善四郎(博多商人・炭鉱主)
明治30年の役員[27]
「第十回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、245頁
「第十二回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、358頁
「第十七回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、666頁
「客車表、第十七回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、647頁
「貨車表、第十七回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、647頁
「第十七回報告」『福岡県史』近代資料編 筑豊興業鉄道(1)、1990年、621頁