第6師団 (日本軍)
大日本帝国陸軍の師団 ウィキペディアから
大日本帝国陸軍の師団 ウィキペディアから
第6師団は、1872年(明治5年)に設置された熊本鎮台を母体に1888年(明治21年)5月14日に編成された師団であり、熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され衛戍地を熊本とする師団である。なお1940年(昭和15年)には歩兵第47連隊(大分)を第48師団に転用し三単位編制に改編された。
1894年、日清戦争では山東半島に上陸して威海衛攻略戦に参戦し、日露戦争では当初第2軍に属し沙河会戦を戦うが、沙河会戦後第4軍に編入され奉天会戦に参戦する。
1902年11月、明治天皇を熊本城内の大本営に迎えて行われた陸軍特別大演習に参加[1]。
1910年4月29日、師団司令部留守部を廃止[2]。1916年6月22日、師団司令部が熊本偕行社に移転し[3]、さらに1917年4月5日、熊本市本丸へ移転した[4]。
1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけて満州に駐屯し、帰国後、1928年(昭和3年)4月の第二次山東出兵に参加する。満州事変では1932年(昭和7年)末に動員がかかり熱河作戦に参戦、さらに中国軍を追って万里の長城まで進出する。
1937年(昭和12年)日中戦争が勃発すると、7月27日には支那駐屯軍隷下となり華北での作戦に従事し、10月20日には第10軍(司令官:柳川平助中将)隷下となり、第18師団・第114師団とともに杭州湾に上陸し中国軍の背後からの攻撃にあたり、続いて南京攻略戦に参戦する。
1938年(昭和13年)2月14日に中支那派遣軍隷下となり徐州会戦を、同年7月4日には第11軍隷下となり武漢作戦を戦う。この間の昭和13年(1938年)5月15日には、留守第6師団の担当で第106師団が編成され、同じく第11軍隷下で武漢作戦に参戦し悪戦苦闘する一方、第6師団は快進撃を続け漢口一番乗りを果たし10月26日に占領する。
太平洋戦争開戦後、1942年(昭和17年)11月にソロモン諸島方面の作戦担当の第17軍に編入される。当初はガダルカナル島に派遣される予定であったが大本営はガダルカナル島からの撤退を決定、師団は1943年(昭和18年)初頭にソロモン諸島のブーゲンビル島(Bougainville)南部に進出する。同年11月、タロキナ地区に連合国軍が上陸し飛行場を建設したため、第6師団を主力とした第17軍は飛行場奪取を試みるが、1944年(昭和19年)3月の反攻(第二次タロキナ作戦)を最後に組織的軍事力を失う。
その後、主戦場がサイパンからレイテ島へと移り、アメリカ軍主力の連合国軍は積極的攻勢には出なかったもののソロモン諸島の日本軍は兵站を絶たれ、長く兵器弾薬が欠乏し飢餓と疫病に苦しむ(第2次タロキナ作戦後の歩兵連隊は4,923名(外、戦傷1,787名)、終戦時には1,654名になったという)。1944年(昭和19年)11月に主力がオーストラリア軍に代わった連合国軍は攻勢に転じ、日本軍主力のこもるブイン(Buin)地区に迫ったが、壊滅寸前に1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。同年9月にオーストラリア軍タロキナ基地で降伏文書に調印、南部沖合いのファウロ島(Fauro)に収容される。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.