日本の伝説上の戦争 ウィキペディアから
神武東征(じんむとうせい)とは、磐余彦尊が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼした後に、初代天皇(神武天皇)の位についたという一連の説話をさす用語。
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神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向(現・宮崎神宮)で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、美々津を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。菟狭津彦命(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。速吸門で亀に乗った国津神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。
浪速国の白肩津[注釈 2]に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。
五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。
それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。
神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。
神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。
忍坂の地では、土雲の八十建[注釈 3]が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。
その後、登美毘古(ナガスネビコ)と戦った。最後に兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮[注釈 4]で神武天皇として即位した。
その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。
参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、文献史学的・考古学的なものではないことに注意。
昔我が天神 、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖 彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊、天関 を闢 き雲路を披 け、仙蹕 駈 ひて戻止 ります。是の時に運 、鴻荒 に属 ひ、時、草昧 に鍾 れり。故 、蒙 くして正 を養ひて、此の西の偏 を治 す。皇祖皇考 、乃神乃聖 にして、慶 を積み暉 を重ねて、多 に年所 を歴たり。天祖の降跡 りましてより以逮 、今に一百七十九万二千四百七十余歳 。而るを遼邈 なる地 、猶未だ王沢 に霑 はず。遂に邑 に君有り、村 に長 有りて、各自 疆 を分かちて用 て相凌ぎ礫 はしむ。抑又 塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「東 に美 き地 有り、青山四 に周 れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。余 謂 ふに、彼 の地は必ず以て大業 を恢弘 べて天の下に光宅 るに足りぬべし。蓋 し六合 の中心 か。厥 の飛び降るといふ者は、是饒速日と謂 ふか。何ぞ就 きて都つくらざらむ。
神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。
『日本書紀』では神武天皇による紀伊名草邑から熊野への大迂回が記される。
上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする[6]。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし[7]、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。
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