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佐賀県、および肥前国の郡 ウィキペディアから
人口16,337人、面積43.99km²、人口密度371人/km²。(2024年7月1日、推計人口)
以下の1町を含む。
三根郡は、古くは「肥前国風土記」[1]「和名抄」などに見えて、「和名抄」では「加無佐岐」と記す。
昔、この郡に荒ぶる神がいて、往来する人が多く殺されました。景行天皇が巡行なされた時、ようやくこの神が和らぎました。それ以来、二度と災いは無くなりました[4]。
そのため、神埼の郡とである。『肥前國風土記』では9郷[1]ですが、三根(みね)・船帆(ふなほ)・蒲田(かまだ)・宮処(みやこ)の4郷の記載である。
神崎荘は、836年(承和3年)『類聚国史』に[3]天皇の命により新たに、690町の土地開発から始まる。皇室領[3]を経て、院領になる。その後は、白河院領[3]から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。鳥羽院領の時代には、院司として平忠盛(平清盛の父)が神埼荘の預所となり、管理するようになった。その子清盛も同じく預所となった。
1292年(正応5年)『河上宮造営用途惣田数注文』には肥前國最大の荘園となったことが記され、その範囲は現在の神埼市、吉野ヶ里町、上峰町、みやき町の一部にいたる3000町とも言われている。城原川流域には、神埼荘の櫛田三所大明神といわれる白角折神社、櫛田宮、高志神社がある。
中世の時期[3]には、蒲田郷・中郷・竹村郷・上條郷・倉戸郷・東郷・西郷・土師郷・本告郷・賀﨑郷があったと推定される。
南北朝時代には、北朝の九州探題の一色氏が勢福寺城、横大路城を拠点とした。南朝は、菊池武安が仁比山城、姉川城を拠点としている。
室町・戦国時代には、江上元種が城原に、菊池氏の末裔の姉川惟安が姉川城に、本告頼景が本告牟田、執行兼貞が仁比山に拠点を置いた。四家は、少弐氏に従って享禄3年(1530年)、田手畷の戦いで奮戦して大内氏に勝利する。
少弐氏の滅亡後は、四家は大友氏に従う。龍造寺隆信が今山の戦いに勝利した後は、姉川氏、本告氏は従属した。江上氏、執行氏は龍造寺と反目している。
明治22年以前 | 明治22年4月1日 | 明治22年 - 昭和19年 | 昭和20年 - 昭和34年 | 昭和35年 - 昭和64年 | 平成1年 - 現在 | 現在 |
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神埼村 | 明治26年7月1日 町制 |
昭和30年3月31日 神埼町 |
神埼町 | 平成18年3月20日 神埼市 |
神埼市 | |
西郷村 | 西郷村 | |||||
仁比山村 | 仁比山村 | |||||
脊振村 | 脊振村 | 脊振村 | 脊振村 | |||
城田村 | 城田村 | 昭和30年4月1日 千代田村 |
昭和40年4月1日 町制 | |||
境野村 | 境野村 | |||||
千歳村 | 千歳村 | |||||
蓮池村 | 昭和10年11月3日 町制 | |||||
昭和30年4月1日 佐賀市に編入 (蓮池、見島 小松、古賀の一部) |
佐賀市の一部 | 平成17年10月1日 佐賀市の一部 |
佐賀市 | |||
三瀬村 | 三瀬村 | 三瀬村 | 三瀬村 | |||
三田川村 | 三田川村 | 三田川村 | 昭和40年4月1日 町制 |
平成18年3月1日 吉野ヶ里町 |
吉野ヶ里町 | |
東脊振村 | 東脊振村 | 東脊振村 | 東脊振村 |
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 明治11年(1878年)10月28日 | |||
明治16年(1883年)5月8日 | 佐賀県に移管 |
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1 | 明治16年(1883年)5月9日 | |||
大正15年(1926年)6月30日 | 郡役所廃止により、廃官 |
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