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百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族 ウィキペディアから
百済王氏(くだらのこにきしうじ)は、百済最後の王である義慈王の子である善光[注釈 2]を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。「こにきし」は、古代朝鮮の三韓の王を指す言葉であり、古代朝鮮語に由来すると考えられている。
氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が[2]、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済王族の出身の氏を指す。また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で、百済王仁貞らが後見者然と名を連ねている[3]ことより、百済系渡来氏族の宗家的地位にあったと考えられる。
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[注釈 3]、この地に百済王の祀廟と百済寺[注釈 4]を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。
正史の『三国遺事』 卷1 紀異1 北扶餘に扶余氏(元姓)の温祚の父である東明帝が卒本夫餘を建国したという記事がある。
古記云 天帝子降于訖升骨城(在大遼醫州界) 乘五龍車 立都稱王 國號北扶餘 自稱名解慕漱 生子名扶婁 以解爲氏焉 王後因上帝之命 移都于東扶餘 東明帝繼北扶餘而興 立都于卒本州 爲卒本扶餘 卽高句麗之始[5]。 — 『三国遺事』 卷1 紀異1 北扶餘
『三国史記』百済本紀の分注に、朱蒙が卒本夫餘に至った際に娘を得て二子をもうけたとする記事がある[6]。
或云:「朱蒙到卒本,娶越郡女,生二子。」 — 三国史記、巻二十三
百済最後の国王・義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋と善光(扶余勇・禅広王・余禅広)を倭国に送った。日本に残った善光が百済王族の血統を伝えることとなった。
奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わった。平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ[注釈 5]厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とした。和気氏・伴氏・佐伯氏などとともに功臣の子孫として天皇即位などの儀式の際に氏爵を受け、従五位下の官人を輩出する慣例ができた[8]。これらの百済王氏への氏爵は戦国時代まで行われていた[9]。
百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を自称した。
また、平安時代後期に常陸国の税所を預かって在庁官人の最高位にあった百済氏も、元は百済王氏の子孫であったとみられる[10][11]。
以下は、「日本三代実録」にみえる百済王氏の陞爵・叙任の一覧[12]。
以下は、各種史料による平安時代後期における百済王氏の陞爵・叙任の一覧[13]。ただし一部は百済王氏ではなく、百済朝臣・百済宿禰などのような百済系の氏姓が含まれている可能性がある[14]。
以下は、各種史料による室町・鎌倉期における百済王氏の陞爵・叙任の一覧[13]。ただし一部は百済王氏ではなく、百済朝臣・百済宿禰などの ような百済系の氏姓が含まれている可能性がある[14]。
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