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百済王 教徳(くだらのこにきし きょうとく、旧字体:百濟王 敎德)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。陸奥鎮守将軍・百済王俊哲の子。官位は従四位上・刑部卿。
従五位下に叙爵後、延暦7年(788年)右兵庫頭に任ぜられる。翌延暦8年(789年)讃岐介として地方官に転じると、延暦18年(799年)上総守と桓武朝半ば以降に地方官を歴任した。
その後、正五位下まで昇進したのち、平城朝の大同3年(808年)宮内大輔に任官する。嵯峨朝では治部大輔・刑部卿と京官を歴任する一方、弘仁3年(812年)従四位下、弘仁7年(816年)従四位上と昇進した。
弘仁13年(822年)卒去。最終官位は刑部卿従四位上。
『六国史』による。
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