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日本の官僚 ウィキペディアから
渡辺 洪基[注 1](わたなべ ひろもと / こうき、1848年1月28日〈弘化4年12月23日〉- 1901年〈明治34年〉5月24日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代の日本の医師(軍医)、官僚、政治家。幼名・孝一郎、号は浩堂、旦堂。
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
渡辺 洪基 わたなべ ひろもと | |
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肖像 | |
生年月日 | 1848年1月28日(弘化4年12月23日) |
出生地 | 越前国南条郡府中善光寺町(現・福井県越前市) |
没年月日 | 1901年5月24日(53歳没) |
死没地 | 東京府豊多摩郡渋谷村(現・東京都渋谷区広尾) |
出身校 | 慶應義塾(現・慶應義塾大学) |
所属政党 |
(国民協会→) (研究会→) 立憲政友会 |
称号 |
正三位勲一等 東京帝国大学名誉教授(1901年) |
配偶者 | 貞子(先妻)、松子(後妻・堤功長娘) |
子女 | 信雄(養子)、貞子(長女・信雄妻) |
親族 | 静庵(父)、蔦埜(母)、悌二郎(長弟)、忠三郎(次弟)、信四郎(三弟) |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1897年12月23日 - 1901年5月24日 |
選挙区 | 東京府第2区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1892年2月15日 - 1893年12月30日 |
在任期間 | 1882年5月24日 - 1884年7月19日 |
在任期間 | 1885年6月13日 - 1886年3月9日 |
選挙区 | 芝区 |
在任期間 | 1889年6月 - 1890年7月4日 |
その他の職歴 | |
芝区会議長[2] (1895年 - 1901年) | |
芝区会議員[3] (1889年11月 - 1901年5月) |
越前国南条郡府中(のち福井県南条郡武生町、現越前市)生まれ。府中の立教館、福井藩医学校済世館で学んだ後、下総国佐倉の佐藤舜海の下で医学を修め、江戸で開成所(箕作麟祥)、福沢諭吉の蘭学・英学塾(後の慶應義塾[4])等で英学を学ぶ。次いで幕府医学所の句読師となったが、戊辰戦争勃発で失職、会津藩へ赴き英学を教授したが、会津戦争の敗北に伴い庄内藩へ向かう途上、米沢藩に招かれ、洋学校開設に尽力した[5]。
大学(文部省の前身)及び外務省に出仕後、元老院議官、東京府知事、帝国大学(東京大学の前身)初代総長、文官試験局長官、駐オーストリア兼スイス公使、衆議院議員、貴族院議員等を歴任し、興亜会、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めた他、工手学校(工学院大学の前身)、大倉商業学校(東京経済大学の前身)の設立に関わった。
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