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幸田文の小説、及びそれをもとにした映画 ウィキペディアから
『流れる』(ながれる)は、1955年に雑誌『新潮』に連載され、翌年出版された幸田文の小説[1]。1954年にデビューした幸田の、作家としての名声を確立した傑作である。自身の体験を踏まえて、華やかな花柳界と零落する芸者置屋の内実を描ききった作品[2]。第3回新潮社文学賞[3]と第13回日本芸術院賞[4]を受賞した。ラジオ、テレビ、舞台で上演され、また成瀬巳喜男監督で映画化もされた[5][6][7]。
流れる | |
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作者 | 幸田文 |
言語 | 日本 |
ジャンル | 長編小説 |
発表形態 | 雑誌掲載 |
初出情報 | |
初出 | 本文参照 |
刊本情報 | |
刊行 | 本文参照 |
受賞 | |
新潮社文学賞、日本芸術院賞 | |
ウィキポータル 文学 ポータル 書物 |
戦後まもないある年の師走、川沿いの芸者置屋「蔦の家」には、老練で芸達者な主人と、彼女の娘の勝代、姪の米子とその娘の不二子が住んでいた。通いの芸者は最盛期には7人いたが、今は染香、なゝ子、蔦次の3人である。しばらく前までいた雪丸は旦那を持って出て行き、なみ江は借金を踏み倒して失踪してしまった。そのなみ江の叔父の鋸山 (千葉の鋸山の石工)、主人の姉で米子の母親の鬼子母神(下谷の鬼子母神に住んでいる高利貸)などが頻繁に出入りしている。そうした「くろうと」の世界に、「しろうと」である中年の後家、梨花が住み込み女中として勤め始めた。「梨花」は言いにくいからと主人に「お春」と呼ばれるようになる。華やかな花柳界の様々な出来事が梨花の眼を通して淀みなく語られていくが、梨花は大みそかに風邪をこじらせ、従姉の家で静養した。七草明けには回復して蔦の家に戻り、再び日常が始まるが、蔦の家の凋落は日に日に明らかになっていく。川向うの料亭の女将なんどりや、秘書役の男性佐伯などが新たに登場し、主人一家や芸者たちの人間模様が赤裸々に綴られる[8]。
1904年 (明治37) 東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)に生まれた幸田文は、6歳で実母を亡くし、継母はリュウマチがあったため、早くから家事を行っていた。24歳で結婚し翌年娘を生むが、34歳の時に離婚し娘と共に実家へ戻った。父・幸田露伴から文学の手ほどきを受けていたが、1947年 (昭和22) 父が亡くなると、父の思い出などを文章に綴り発表していた。1951年 (昭和26) 職探しをして11月に台東区柳橋の芸者置屋「藤さがみ」に住み込みの女中になる。しかし12月下旬に体調を崩し、翌1月に自宅に戻り2カ月余り床に臥せった[9]。
『流れる』ではこうした自身の体験を軸に、幼いころから親しんだ隅田川沿いの風景と町並み、人々の暮らしぶりを背景にして物語が進んでいく。幸田文は父親に関する文章を綴っているが、「親の血だの、筋だのといわれると息が詰まって、なにかやたらと謀反気がおき、何処か別のところで安気な呼吸がしたく、若気のいたりで勤め口をさがしたのが、川を下ったそこだった」と後に記している[10]。
タイトルの「流れる」について作者は、「しあはせになつてあちらの方へ遠く離れて行くのを見送つてゐること」のように思われる、と書いている[11]。また幼いころから川に親しんでいた作者は、川にかかる橋の手前でいつも止って周りの景色を眺めており、「水は流れるし、橋は通じるし、「流れる」とは題したけれど、橋手前のあの、ふとためらふ心には強く惹かれてゐる」とも書いている[12]。
『幸田文全集 第23巻』所収「著作年表」[13]及び国立国会図書館NDL-Onlineより編集。
『幸田文全集 第23巻』所収「年譜」[5]より編集。
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