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楽 以琴(がく いきん、ユエ・イーチン、1914年11月11日[1] - 1937年12月3日)とは、中華民国空軍の軍人・エース・パイロット。原名楽以鍾、四川省蘆山県上西街出身。最終階級は上尉(大尉に相当)、死後少校(少佐に相当)に特進。中央航空学校駆逐科第3期生。撃墜数6。飛将軍(飛行将軍)の通称で呼ばれ、高志航、劉粋剛、李桂丹とともに中国空軍軍人の「四大金剛」と称されている[2]。
水たばこ農園や茶荘を経営する豪商の家庭に生まれる。家系は岳飛の末裔であり、秦檜からの迫害を逃れて四川に辿り着いたとき「楽」に改姓したとされる。父の楽和洲は叔父の楽和済ともども教育熱心なクリスチャンであり、学校や教会の設立に貢献した地元の名士であった。兄弟が17人もいる大家族で、その多くが父の教育方針で医師や教師となっている。楽もまた満足な教育を受け、雅安小学卒業後、張家山明徳中学を経て済南の斉魯大学に合格。なおこの時、入学に必要な卒業証書が中学にはなかったらしく、華西協合高級中学を卒業した四番目の兄の楽以琴の卒業証書を拝借、以後「楽以琴」を名乗る事となった[3]。なお、本当の楽以琴も同様に妹の楽以純の卒業証書を借用して空軍パイロットとなっており、楽以純と名乗っている。
また幼少期よりスポーツにも秀で、サッカーを好んだ[4]。1931年の双十節に開催される第五届全国運動会のトラック競技に四川学生代表として参加が決まっていたが、満州事変と第一次上海事変を受けて2年後の延期となる。憤慨した楽は大学を自主退学し、杭州の中央航空学校に三期生として入学。1934年12月30日に卒業し、中央航校飛行教官、第8隊附を経て、空軍第4大隊第22隊分隊長。大隊長は高志航中校、中隊長は黄光漢で、乗機はカーチス・ホークⅢ(当時の中国空軍では新ホークと呼称)であった。
1937年8月15日、杭州において、加賀の八九式艦上攻撃機艦攻隊第1中隊8機と交戦し、4機を単独撃墜。8月21日、黄中隊長率いる新ホーク9機の1機としてノースロップ・ガンマ2EC6機とともに公大飛行場爆撃の命を受け、上空警戒中の神威所属の九五式水上偵察機6機(南部徳盛中尉指揮)と交戦、上海西部朱家宅において矢野一空曹の水偵一機を撃墜した[5]。矢野一空曹らは着水後、母艦に救出された[6][5]。9月20日、第5大隊第24中隊長の劉粋剛率いる9機の1機として参加。この時、楽は何らかの理由で高大隊長機に搭乗し、機種不明の軽爆撃機を撃墜した。この軽爆撃機は、日本側の記録から亀義行大尉の九四式艦上爆撃機と見られるが、亀大尉機は銃手の黒田一空曹を失いながらも帰投している[5]。10月、蘭州に赴き、I-16に換装。
12月1日、南京防空戦の任を受け、董明徳とともに明故宮飛機場に飛来。翌日昼、第3大隊、ソ連空軍志願隊とともに十三空との空戦に参加[8]。しかし帰投後、エンジンのシリンダーの故障に見舞われる。3日、董明徳の乗機を借りて搭乗し、南京郊外北東の棲霞山上空にて爆撃機の編隊と交戦中にその上空から九六式艦上戦闘機3機の襲撃を受け被弾[7]。パラシュートにて脱出したが、董明徳によると開傘せず地面に激突し死亡したとされる[9]。ただし、日本側では1日後の12月4日に初陣であった十三空第3小隊所属の武藤金義一空兵の搭乗する九六式艦戦3番機が南京にてI-16を撃墜した旨が記録されており、この機の搭乗者が楽以琴であったと考えられている。23歳没。
その活躍は小学校の教科書にも掲載されたが、戦後の国共内戦で国民党が敗れて以降、元党軍関係者は無論、楽以琴の親族も厳しい弾圧を受け、楽以琴の存在は忘れ去られていった。しかし、中台交流が高まり国民党系軍人の再評価がなされるようになった1990年代に名誉回復がなされた。
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