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森田 登(もりた みのる、1882年〈明治15年〉10月8日 - 1942年〈昭和17年〉8月30日)は、日本の海軍軍人。海軍の出世コースであった、高砲甲種をいずれも首席で卒業した海軍少将である。
兵庫県出身。父は旧姫路藩士[1]。1899年(明治32年)海軍兵学校入校。1902年(明治35年)卒業(30期)。ハンモックナンバー6番。同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる。二号生徒のとき席次4番で学術優等章を授与された。
兵学校卒業後「八島を経て、「橋立」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。その後「皐月」乗組みを経て「敷島」、「磐手」分隊長。大尉に進級後、十七艇隊長、「浅間」分隊長と実務経験を積んだ後、第二艦隊参謀、海軍大学校乙種学生となる。次いで海軍砲術学校高等科学生に進み優等(首席)で修了。旅順鎮守府参謀兼副官、「鞍馬」分隊長として英国へ回航後、再度の第二艦隊参謀を務める。
海軍少佐昇進と同時に海軍大学校甲種学生(12期)となる。同期に米内光政、加藤隆義、長谷川清、寺島健がいたが、首席で卒業した。
「金剛」分隊長等を経て海軍省軍務局局員。英国駐在となり、第一次世界大戦では観戦武官として、英戦艦「アガメムノン」に乗組んでいる。帰国後軍令部参謀に補され、ジュネーヴで開催された国際連盟総会代表者随員・国際連盟陸海空軍問題常設諮問委員会海軍代表随員を務め、1921年(大正10年)12月1日大佐へ昇進。「利根」及び「名取」艦長を務めた。
軍需局第三課長、次いで第一課長を務め、農商務事務官、商工事務官を兼任した。1926年(大正15年)12月1日少将へ昇進と同時に軍令部出仕となり、1927年(昭和2年)4月10日予備役編入となる。
その後は比国で偽名を用い医療器具販売を行っていた。
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