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日本の政治家 (1926-1992) ウィキペディアから
岸田 文武(きしだ ふみたけ、1926年〈大正15年〉8月19日 - 1992年〈平成4年〉8月4日)は、日本の通産官僚、政治家。位階は正四位。元自由民主党所属の衆議院議員(5期)。
父は元自由党衆議院議員の岸田正記、大蔵省証券局長、広島銀行会長・相談役を務めた岸田俊輔は弟。妻は元日東製粉社長井口良二の次女。長男は衆議院議員で第27代自民党総裁、第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄。派閥は宏池会に所属した。
1945年、旧制東京高等学校(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)卒業[2]。東京帝国大学へ進学[2]。しかし、戦争末期のころであり、入学早々から勉強どころではなく、連日の勤労動員に続いて、終戦間近の同年7月には、学徒動員で旭川の師団に入隊した[2]。そして、その1か月後には、郷里広島に原爆が投下され、広島市の自宅はその被害に遭い、また、多くの知人を亡くした[2]。在学中に高等文官試験に合格[2]。1948年東京大学法学部政治学科卒業[1]。
1949年商工省(現・経済産業省)入省。同年入省者には、矢野俊比古(通産事務次官、のちに参議院議員)、天谷直弘(通産審議官)、生田豊朗(日本エネルギー経済研究所理事長)、金森久雄(日本経済研究センター理事長)、熊谷善二(特許庁長官)などがいる[1]。繊維局配属[3]。通産省大臣官房会計課長、資源エネルギー庁公益事業部長なとを経て、1974年貿易局長、1976年中小企業庁長官を歴任して1978年退官[1]。
1979年の第35回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選[1]、以降当選5回[1]。その間、地方行政委員会、農林水産委員会、科学技術委員会、商工委員会、文教委員会、物価問題等に関する特別委員会等の委員あるいは理事として、「信頼される政治」をモットーに広い範囲で活躍[2]。1990年3月には内閣委員長に就任[2]。政府にあっては、第2次中曽根内閣においては総務政務次官、第3次中曽根内閣では文部政務次官として、大臣を補佐した[2]。この間、特に教育改革の推進に努め、1986年12月、ジュネーブで開催された第40回国際教育会議では、日本の首席代表として、各国代表の前で演説を行い、日本の教育改革への取り組みを紹介するとともに、教育の国際協力の重要性を強調した[2]。
自由民主党にあっては、都市局長、資源・エネルギー対策調査会副会長、中小企業調査会副会長、調査局次長、行財政調査会副会長などを歴任し、1988年12月からは党経理局長として、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一の4代の総裁のもとで、幹事長を補佐した[2]。衆院5期目任期途中の1992年8月4日、東京都内の病院で死去した。65歳没。死没日付をもって正四位勲二等に叙された[4]。追悼演説は同年11月10日の衆議院本会議で森井忠良により行われた。
地盤は長男の文雄が継承し、1993年の第40回衆議院議員総選挙で初当選以降連続10期当選を経て、第100・101代内閣総理大臣の職に就いている。
1945年8月15日、終戦と同時に、東京にあった家も進駐軍の接収に遭い、また、外地において大きく事業を営んでいた一家の財産も、すべて失ってしまった[2]。
岸田は自他ともに認める読書家であり、秘書が「先生の姿が見つからないときは、本屋へ行け」と言われるほどであった[2]。政治、経済、歴史、科学あるいは文学と、分野にこだわらず幅広く読み、広く国の未来を見据えるために、多くの知識や情報を取り入れ、それを政策として反映させた[2]。親しい人に揮毫を頼まれると、気軽に「春風接人」と書いた[2]。
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