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日本の歌手 ウィキペディアから
岸 洋子(きし ようこ、1935年(昭和10年)5月23日 - 1992年(平成4年)12月11日)は、日本のシャンソン歌手、カンツォーネ歌手。所属レコード会社はキングレコード[1]。本名は小山 洋子(こやま ようこ)。山形県酒田市出身。
姉に連れられて行った宝塚歌劇団の声楽教授を務めた加藤千恵(酒田市名誉市民)が開設したボーカルスタジオで音楽と出会う。俳優成田三樹夫は中学・高校の同級生[2]。
東京藝術大学に進学し、在学中に二期会研究生となり、オペラ歌手を目指していたが[3]、心臓神経症のため断念する。病床で聴いたエディット・ピアフのアルバムに感動して、1959年(昭和34年)、NHKのオーディションに合格。シャンソン歌手の道に進んだ[3]。
1961年(昭和36年)、キングレコードの専属となり、『たわむれないで』でレコード・デビュー[3]。石井好子が設立した石井音楽事務所に所属する[4]。64年、『夜明けのうた』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、一躍、実力派の流行歌手として脚光を浴びた[3]。翌年には『恋心』もヒット[3]。その後は、テレビ番組の司会やミュージカルなど幅広い活動を続ける[3]。
1970年(昭和45年)9月末、酒田市のイベント会場で倒れ、緊急入院。膠原病と診断され、闘病生活を余儀なくされる[5]。この年、『希望』が約70万枚売り上げる大ヒットとなり、2度目のレコード大賞歌唱賞を受賞したが[3]、入院中のため授賞式には出席できず、『第21回NHK紅白歌合戦』への出場も辞退した。高熱にうなされ闘病半年余、歌への執念が生への活力につながり、奇跡的に再起を遂げ[2]、71年には『甦える明日』などをレコーディング[3]、加えて『希望』が「第43回選抜高校野球大会」の入場行進曲に採用された。以後は、レコード発売や公演数は減ったものの、活動は重ねた[3]。
1989年(平成元年)、歌手生活30周年を記念して全国ツアーを展開。公演の途中、激痛に襲われ打ち切りとなったが「同じ難病をかかえる人たちの心の支えになるためにも、私は歌い続ける」と91年にカムバックし、その秋には東京厚生年金会館の舞台に立った[3]。
1992年11月19日、自宅玄関で転倒し肋骨を骨折損傷し[3]、膠原病の後遺症悪化による腎臓病治療のため再入院した。入院中も年末のディナーショーの準備を行い、当初12月12日に退院が決まっていた。しかし、退院2日前の12月10日に意識不明の重体となり、翌11日に敗血症のため急死した[3]。57歳没。生涯独身だった。
没後に故郷の酒田市にて「岸さんの楽曲を歌い継ぎ、その功績を多くの人に知ってもらいたい」として『岸洋子を歌いつぐ会』が結成され、活動が続けられている[6]。
日本のシャンソン界において越路吹雪と人気を分け、「魅せる越路、聴かせる岸」と評価されていた。
(注意点)
初放送 | 曲目 | コーラス | 再放送 |
---|---|---|---|
1965年(昭和40年)6月 - 7月 | レロンレロンシンタ[7] (1965年版) | (なし) | (なし) |
1965年(昭和40年)12月 - 1966年(昭和41年)1月 | ピエロのトランペット[8] (1965年版) | 2022年(令和4年)2月▲ | |
1966年(昭和41年)2月 - 3月 | ドナドナ | 2006年(平成18年)8月23日△ 2006年(平成18年)12月12日△ 2007年(平成19年)1月2日△ 2008年(平成20年)12月 - 2009年(平成21年)1月 2021年(令和3年)10月[9] | |
1966年(昭和41年)4月 - 5月 | 春のそよ風[10] | (なし) | |
1973年(昭和48年)4月 - 5月 | レロンレロンシンタ[7] (1973年版) | 2022年(令和4年)8月 - 9月▲ | |
1974年(昭和49年)4月 - 5月 | ぼくの町 | スクールメイツ | (なし) |
(注意点)
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