万寿之助は1868年(明治元年)1月25日、出羽国米沢に小田切盛徳の長男として生まれる。少年時代は地元で学び、後に上京して1886年(明治19年) に、外務省に入省。間もなくして天津に留学する。その後、領事館書記生となり公使館書記生を経て[1]、1896年(明治29年)に、二等領事となって以来、郵便電信書記、二等郵便局長、杭州郵便局長、上海総領事代理、等の官職を歴任し、1902年(明治35年)には総領事となり、日清通商航海条約改訂委員及び清国関税率換算委員なども務めた。そして1905年(明治38年)に総領事を依願退職すると、横浜正金銀行の顧問に就任し、その翌年の役員選挙では取締役に当選した。その後は同取締役を長らく務め、満州総括店監理、清国支店出張所監理、対丈特殊事務取扱、頭取席事務取扱などの担当を歴任した[2]。墓所は多磨霊園。
- 著書
- 『銀台遺稿』 1935年 小田切万寿之助(著) 小田切武林(出版)[41]
- 『合衆国西北部ニ於テ帝国領事館新設地撰択ニ関スル報告』 1894年 小田切萬壽之助(著) 外務省通商局第二課(出版)[41]
- 纂著
- 『朝鮮』 1890年 小田切万寿之助(纂著)[41]
- 編纂
- 『譯補支那交通紀實』 1917年 小田切万寿之助(編纂)[41]
- 『小田切万寿之助研究 -明治大正期中日関係史の一側面』「小田切万寿之助明治大正期中日関係史」 于乃明(著)〈博士論文〉 筑波大学[41]
『両羽之現代人』 「横浜正金銀行取締役 小田切万寿之助」
『官報』第3882号「叙任及辞令」1896年6月9日。
『官報』第3883号「叙任及辞令」1896年6月10日。
『官報』第4010号「叙任及辞令」1896年11月9日。
『官報』第4161号「叙任及辞令」1897年5月19日。
『官報』第4346号「叙任及辞令」1897年12月24日。
『官報』第4485号「叙任及辞令」1898年6月14日。
『官報』第4722号「叙任及辞令」1899年4月1日。
『官報』第5178号「叙任及辞令」1900年10月3日。
『官報』第5320号「叙任及辞令」1901年4月1日。
『官報』第5321号「叙任及辞令」1901年4月2日。
『官報』第5554号「叙任及辞令」1902年1月11日。
『官報』第5556号「叙任及辞令」1902年1月14日。
『官報』第6133号「叙任及辞令」1903年12月10日。
『官報』第6161号「叙任及辞令」1904年1月18日。
『官報』第6539号「叙任及辞令」1905年4月21日。
『官報』第6540号「叙任及辞令」1905年4月22日。
『官報』第6616号「叙任及辞令」1905年7月20日。
『官報』第2758号「叙任及辞令」1921年10月10日。
『官報』第3408号「叙任及辞令」1924年1月4日。
『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
『官報』第2317号「叙任及辞令」1934年9月19日。
『官報』第3927号「叙任及辞令」1896年7月31日。
『官報』第4562号「叙任及辞令」1898年9月12日。
『官報』第5406号「叙任及辞令」1901年7月11日。
『官報』第6600号「叙任及辞令」1905年7月1日。
『官報』第4758号「叙任及辞令」1899年5月15日。
『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
『官報』第6265号「叙任及辞令」1904年5月21日。
『官報』第1264号「叙任及辞令」1916年10月16日。
『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
『官報』第4828号「叙任及辞令」1899年8月4日。
『官報』第6626号「叙任及辞令」1905年8月1日。
『官報』第1035号「叙任及辞令」1916年1月17日。
『官報』第1072号「叙任及辞令」1916年3月1日。
『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
『官報』第1727号「叙任及辞令」1918年5月8日。
『官報』第3657号「叙任及辞令」1924年10月30日。
『国立国会図書館サーチ』キーワード「小田切万寿之助」
富永敏麿『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]