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小松 俊広(こまつ としひろ、1940年〈昭和15年〉1月13日 - 2023年〈令和5年〉10月8日[3])は、高知県高知市出身のプロ野球選手(投手)。プロ入りまでの名は小松 敏宏(読み同じ)。
高知商業高等学校では、エースとして1957年の春の選抜に出場[1]。小倉高、八幡商を破り準決勝に進出する。準決勝でも倉敷工の渡辺博文らに3-1で投げ勝つ。しかし決勝では王貞治投手を擁する早稲田実業と対戦し3-5で敗退、準優勝にとどまった[4]。同年夏の南四国大会でも決勝に進出するが高知高に0-1で9回サヨナラ負け、甲子園出場を逸する。この時のチームメイトでは捕手の坂本宏一(大洋)、遊撃手の尾崎靖夫、外野手の倉内顕(西鉄)がプロ入りしている。王、清沢忠彦とともに左腕投手の三羽烏として注目される。
1958年に巨人入団[1]。1年目から一軍で起用され、4月16日に広島カープを相手に初先発。同年は14試合に登板し、リリーフ、抑え投手として実績をあげる。同年の最終戦で2度目の先発、広島の橋本敬包と投げ合い5回を無失点に抑えるが、打線の援護がなく勝ち星はつかなかった。しかし翌1959年7月2日には大洋ホエールズを相手に先発、鈴木隆との左腕対決となるが、5回2/3を2失点に抑え初勝利を挙げる。将来を期待されたが、その後は故障もあって伸び悩み、1962年限りで引退した[1]。
引退後は巨人のチーム付スコアラー(1963年 - 1964年, 1984年 - 1985年)、先乗りスコアラー(1965年 - 1983年)に回り[1]、公式戦での対戦相手のデータを調査し、巨人首脳陣、王貞治や長嶋茂雄ら主力選手に提供する役目を担うなどし、巨人軍V9を支えた、いわば先乗りスコアラーの元祖とも言える人物でもあった[5][6]。
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