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秋田市の東部、太平地区の中では南部に位置する。北西部を太平川が東西に横断し、北岸に並行して秋田県道28号秋田岩見船岡線及びその旧道(太平街道)が走る。県道・街道の周辺に寺中・平形・下館・川原と集落が多く集まり、寺社が多い。南岸は太平川支流の谷深くまで農地が広がり、その中の一つに井関沢集落がある。務沢と三番片貝沢・八幡台にかけてゴルフ場「秋田太平山カントリークラブ」がある。その他は山林地帯である。
西・北西は太平目長崎、北東は太平寺庭・太平黒沢、東は太平山谷、南は河辺北野田高野・下北手寒川に隣接する。
32の小字が現存する[3]。
中関の名は明治時代になってから成立したものであり、それ以前は寺中(じちゅう)・堀之内(ほりのうち)・井関沢(いせきざわ)と呼ばれていた[4]。
寺中は、文禄元年8月22日(1592年9月27日)の「秋田家分限帳写」に館岡半兵衛代官所の中で「寺中村 489石余」とあるのが初見資料である(秋田図書館所蔵文書)[5]。慶長6年(1601年)の「秋田家分限帳」にも、鵜瀞長右衛門預かりの鉄砲衆・鑓衆知行として17石7件、工藤小兵衛預かりの弓衆として17石・4件が設定されている[5]。山中の平坦地であり地理的条件に恵まれていたため、開発が早く中世にも充実していたものと考えられる[5]。
江戸期には寺中堀内村となり、久保田藩領で、「正保国絵図」では本田当高330石となっている[5]。「享保黒印高帳」では村高445石余・当高531石余(うち本田471・本田並34・新田26)[5]。「享保郡邑記」では104軒あって、うち枝郷の川原・下館・本宿・平形・宮沢の5ヶ村分が63軒となっている[5]。このうち宮沢は、悪病が流行り1軒を残すのみとなり、当初「寺中堀之内」であった村名の「之」を除くと記録されている[5]。「寛政村附帳」では親郷目長崎村の寄郷とされ、当高375石余(うち蔵分356、給分19)[5]。「天保郷帳」では531石で、「羽陰温故誌」によるこの頃の人口は464、馬100・牛40であった[5]。
井関沢村は、始め河辺郡(寛文4年(1664年)4月に豊島郡から改称)で、享保年間に秋田郡へ移った[6]。同じく久保田藩領で、地形的に寺中堀内村の内部にあり、開村以来黒印は堀内村で預っていたという(享保郡邑記)[6]。「享保黒印高帳」では村高69石余・当高46石余(うち本田並26・新田20)[6]。「享保郡邑記」では6軒[6]。「寛政村附帳」では親郷目長崎村の寄郷とされ、当高71石余(給分のみ)[6]。「天保郷帳」では46石余[6]。
地区内で町名整理・住居表示実施その他に伴う区画変更は行われていない。
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