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日本の元お笑い芸人、俳優 (1971-) ウィキペディアから
大島 直也(おおしま なおや、1971年6月6日 - )は神奈川県横浜市出身のタレント、俳優、実業家である。元お笑い芸人、ドロンズとして活動していた。YScompany所属。
小学生の時、ザ・ドリフターズに影響されクラスの仲間を集めてお楽しみ会等でコントを披露するようになる。高学年になると『スネークマンショー』に感化されコメディアンになる事を決意。友人と『シック・ツー・マンショー』を結成し、音声のみのコントを作成。
栄養士で料理好きな母の下、食いしん坊に育つ。両親が共働きだったこともあり、週末は母も家事を休んで外食を楽しむ家庭であった。行きつけの店の中には本格的なフレンチやイタリアンなどもあり、幼い頃から舌を鍛えられたという。
中学生の頃、シティーボーイズ・竹中直人の影響を受けて、芝居路線のお笑いが好きになる。
1990年3月、神奈川県立東金沢高等学校(現神奈川県立金沢総合高等学校)卒業。役者になる事を目指し、日本大学芸術学部映画コースを第一志望としたが2浪の末に断念。現役・浪人時代合わせて約60校受験するも勉強嫌いが災いし惨敗だったという。
1992年4月、日本映画学校俳優科に入学。
普通自動車運転免許取得後3度目の運転で、飛び出してきた猫を避けた際に事故を起こす。親から借りた車は大破したが、大島は奇跡的にまったくの無傷だったという。
映画学校2年生の頃に受けた“お笑い”の授業にて、クラスメイトと組んでコントを披露した。その際、周囲から好評を博し手応えを感じた。
在学中に友人とイベント団体『GHOST COMPANY』を結成。様々なジャンルで活動中だった若手のパフォーマーを集めてライブを企画・開催している。その中で、大島は『ジェリーフィッシュマンズ』というコンビを組み、コントを披露。
3年生となった大島は卒業後の進路について、まずお笑い芸人として有名になり、その後俳優業に移行しようと画策。
卒業を目前に控え、本格的にお笑い芸人の道に進むことを決意。在学中に知り合った古坂大魔王[注 1]の紹介で石本武士と出会う。
1994年10月『大島・石本』のコンビ名で「ラ・ママ新人コント大会」に出演。好感触だったが、大島の卒業公演が控えていたこともあり、本格的なお笑い活動は翌年3月以降と予定した。
1995年3月日本映画学校俳優科(7期生)卒業。
1995年6月、正式に石本武士とお笑いコンビ「DRUG」のちに「D.R.U.G」結成。「DRUG」名義で改めて「ラ・ママ新人コント大会」に出演、これを機にお笑い芸人として活動を始める。
1996年3月、事務所から趣旨を知らされぬまま『進め!電波少年』の面接(オーディション)を受ける。最終選考5組に残るが落選。のちに猿岩石が務めた「ユーラシア大陸ヒッチハイク旅」の面接だった事を知り複雑な心境になる。
1996年4月、電波少年と同じ土屋敏男プロデューサーの番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』の前説を始める。同時期、若手お笑い芸人を追うという内容のNHKドキュメント『にっぽん点描』の4ヶ月間に及ぶ密着取材を受ける。
1996年6月、『進め!電波少年』の前説も任される。2人の前説の様子を見た土屋は、この2人なら猿岩石とはまた違う旅をしてくれるだろうと、次のヒッチハイク企画への起用を画策。同じ頃、麻薬などを連想させる『D.R.U.G』というコンビ名は、メディアに露出する今後のイメージも考慮して変更するようアドバイスされる。いくつか改名案が出されるも難航したため、痺れを切らしたチーフマネージャーから「この世にないオリジナルの言葉で考えろ」と課題を出され、前のコンビ名から一音残し『ドロンズ』に改名。
上述の改名は、実は電波少年出演の兼ね合いで行われたものであった。改名直後の10月末『進め!電波少年「南北アメリカ縦断ヒッチハイクの旅」』に出発。放送後は一躍名を馳せる。
1997年6月エクアドルにて26歳を迎える。同年12月31日ゴール、年明け帰国で凱旋ライブ。初舞台の場所であるラ・ママで24時間ライブを決行。1998年3月、お礼参りの旅として再び雷波少年の旅が始まる。当初は日本における様々な社会問題等のお題を与えられ、ヒッチハイクしながら取材、それを元にコントを作成し路上ライブを行い、そこでの収益で1週間生活するというものだった。
同年5月から「ドロンズのドンキホーテ!日本を行く!」に企画変更。2歳のロバ「ロシナンテ」を連れて北海道の宗谷岬を出発し、ゴールは鹿児島県の佐多岬までとする日本列島を縦断する旅が始まった。27歳の誕生日は津軽海峡上だった。9月に鹿児島県最南端の佐多岬でゴールを果たした。
以降、多くのバラエティ番組に出演。
2003年3月、かねてから俳優になることが夢だった大島は相方の石本に相談。話し合いの末にドロンズは解散となる。心機一転、俳優業に転身したものの思惑は外れ、なかなか軌道に乗らなかった。芸人時代と比べ収入は激減、建築現場や短期アルバイトに勤しんで生活を繋いでいた。
新たに芸能事務所に所属、映画やVシネマなど出演する機会を得るが鳴かず飛ばずの状態だった。この時期に劇団立ち上げの話も持ち上がるが、仲間との意見が合わず頓挫。そんな中、父親を脳腫瘍で亡くす。公私共に五里霧中に立たされる。
飲食店の起業を決意し、当初はバーを開くため画策。しかし、大阪の知人の勧めで食べた鉄板鍋(鉄板焼きから派生した料理)に衝撃を受け、東京に無いものを提供したいと考えていた大島は、鉄板鍋のアレンジ料理を出す店にしようと決めた。
料理や経営について勉強を重ね、飲食店で働きつつ修行をこなし調理の基本を学んだ。
2006年8月、東京都の恵比寿に『ちりとり鍋 大島』を開店。元相方である石本は、恵比寿に『馬肉屋たけし』を翌年オープンさせている。石本とは現在も公私共に交友がある。
2008年5月18日、店の立ち上げにも協力した元タレントの武田夏葉子と結婚。夏葉子は初代日銀総裁・吉原重俊の玄孫、また、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎妹の岩崎さきの系統でもあり、荘田平五郎の玄孫にあたる。『ちりとり鍋 大島』では経理や広報、大島の芸能活動におけるマネージャーも務めるなど陰で支え続けた。
2009年6月、芸能活動での路線を軌道修正し、タレント業に比重を置く。
2015年2月、一部のスポーツ新聞等で2014年11月22日に離婚届が提出されたことが発覚。円満離婚だという。同時に、夫婦で切り盛りしていた店を譲渡。現在も店名には「大島」の文字が入ってるが、大島は店側に一切関与していない。大島が開発した秘伝の味噌を使ったちりとり鍋は、元相方のドロンズ石本が経営する『馬肉屋たけし』(東京・恵比寿)で味わえる。別れた妻子とは現在もまれに顔を合わせる仲である。
2015年、家族と店を失った大島はタレント・俳優として再スタートを切った。
2015年12月、母親が肺がんに罹っていることが判明。既にステージⅣであったことから俳優業を中断し、アルバイトをしながら介護にあたった。2017年7月に母親が死去した後は、介護経験を踏まえた講演会などをこなしながら俳優業への復帰を進めている[2]。
KABS介護離職防止対策促進機構サポーター・日本花押協会広報部長といった肩書、書道二段・クレジットカードアドバイザーなどを所持している。
コンビとしての出演はドロンズを参照
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