Loading AI tools
1899-1974, 俳優。 ウィキペディアから
坂本 武(さかもと たけし、1899年(明治32年)9月21日 - 1974年(昭和49年)5月10日)は、日本の俳優。本名は永石 武平。
松竹蒲田撮影所で軽妙な脇役として活躍し、斎藤寅次郎監督らによる短篇喜劇映画に多く出演した。小津安二郎監督作品にも常連出演し、『出来ごころ』『浮草物語』などの「喜八もの」では主人公の喜八を演じて人気を得た。上記以外の出演作品に『カルメン故郷に帰る』『煙突の見える場所』など。
1899年(明治32年)9月21日、兵庫県赤穂郡坂越村(現在の赤穂市坂越)に、漁師の父・安吉と母・ます江の5人兄弟の長男として生まれる[1]。坂越尋常高等小学校卒業後[2]、大阪の時計店に勤めるうち、松旭斎天勝一座の奇術を観に行き、舞台からの呼びかけに奇術の相手として飛び入り出演する。それで芸人志望が昂じ、1921年(大正10年)に地方巡業の旅一座に入る[1]。
1923年(大正12年)、一座が解散し、松竹下加茂撮影所へ仕事を貰いに行ったところ、たまたま高所から川に飛び込む役を俳優たちが尻込みしているのを見て、即座に志願してやってのけた[1]。これを買われて同年に松竹下加茂に入社する[1]。役らしい役も付かぬまま1924年(大正13年)に下加茂撮影所閉鎖で蒲田撮影所時代劇部に移り、斎藤寅次郎監督の『桂小五郎と幾松』『島原美少年録』などに敵役として売り出し、この間に斎藤監督のきわもの映画『噫河野巡査』では、当時殺人犯として有名だった鬼熊こと岩淵熊次郎を演じて話題となった[1]。
1927年(昭和2年)11月5日、蒲田撮影所の時代劇部が廃止され[3]、それに伴って現代劇に転向。城戸四郎撮影所長が推進する短篇喜劇で斎藤達雄、飯田蝶子、渡辺篤らとともに活躍する[1]。特に斎藤・小津安二郎・佐々木恒次郎監督作品に多く出演し、斎藤監督作品では『浮気征伐』『石川五右衛門の法事』『熊の八つ切り事件』など、佐々木監督作品では『男に御用心』『ちょっと出ました三角野郎』などに出演する。小津監督作品では、『若人の夢』『カボチヤ』『会社員生活』『突貫小僧』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などで庶民的な役を器用にこなし、小津映画に欠かせないバイプレーヤーとして独特の好演を見せた。1933年(昭和8年)1月、小林十九二とともに幹部待遇に昇進する[4]。同年公開の『出来ごころ』に始まり、『浮草物語』『箱入娘』『東京の宿』へと続く小津監督の「喜八もの」では、主人公の喜八を演じ、下町庶民の哀歓を細やかに演じた。短篇喜劇以外にも、牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と東京』『彼と田園』、五所平之助監督の『マダムと女房』、島津保次郎監督の『家族会議』、清水宏監督の『風の中の子供』など多数の作品に出演する。1935年(昭和10年)1月、小林・大日方傳・坪内美子らとともに幹部に昇格する[5]。
戦後は、小津監督の『長屋紳士録』で再び喜八役で登場したほか、木下惠介監督の『カルメン故郷に帰る』などに出演。1953年(昭和28年)からフリーとなり、翌1954年(昭和29年)には佐野周二らの俳優集団・まどかグループに所属する[1]。1958年(昭和33年)には東宝と契約して映画出演を続け、テレビドラマにも進出した。
1966年(昭和41年)5月7日、ドラマ『青春とはなんだ』の撮影中に倒れて現役を引退し、1974年(昭和49年)5月10日、心不全のため福岡県宗像郡玄海町(現在の宗像市)の長女宅で死去[1]。74歳没。没後、勲四等瑞宝章追贈[1]。
◎印は小津安二郎監督作品。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.