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1914年以降、国鉄では制式客車用台車[注釈 1]について、その側枠を構成する主要材料として「球山形鋼(バルブアングル)」[注釈 2]と呼ばれる、本来は船舶向けに生産されていた特殊な断面の形鋼材を使用していた。しかし、造船用鋼材の需要が第一次大戦後の造船不況の影響で激減し、これに伴って球山型鋼も生産打ち切りとなってしまった。鉄道省は八幡製鐵所に鉄道向けの特注生産を打診したが、必要数の100倍以上の最低生産量を提示され、断念した。
このため球山型鋼を使用しない客車用台車の設計を強いられた鉄道省は、これを機に台車の基本構成を一新することになった。こうして1928年に優等車用3軸ボギー台車であるTR73と、一般車用2軸ボギー台車であるTR23の2種が設計され、1929年度量産開始のスハ32系客車より標準採用された。
これらが良好な成績を収めたことから、1930年代から1940年代にかけて客車のみならず電車・気動車にまで幅広く採用され、更に太平洋戦争後も軸受構造の変更を実施の上で1950年代初頭まで同系台車の量産が継続された。
特に基幹形式である客車用のTR23は、それ以前に製造されていた2軸ボギー台車よりも荷重上限が高かったこと、1940年代後期以降に開発された鋳鋼製側枠台車と比較して、乗り心地では劣るが重量が軽くできていたこと、そして長期大量製造されたゆえの個体数の多さで、国鉄では製造終了以降も長く使用された。荷重対策や軽量化対策を主眼に、新旧の客車間での台車履き替え交換、廃車発生品の転用が1960年代まで実施され、この台車を使用した客車は「旧型客車」の一般営業終焉期の1980年代まで国鉄線上に見受けられた。
「ペンシルバニア形」と呼ばれる、アメリカ合衆国の有力私鉄・ペンシルバニア鉄道 (Pennsylvania Railroad) で設計・使用されていた客車・電車用台車を参考に設計された[注釈 3]、揺れ枕吊りを備える軸ばね式台車[注釈 4]である。
頭端部にコイルばねを内蔵する鋳鋼製軸箱部[注釈 5]とH形鋼の加工品による側梁を、鋳鋼による横梁(トランサム)と鋲接で組み合わせて台車枠を構成する。本形式の設計時に参考にされたと目されるペンシルバニア鉄道の自社設計台車群[注釈 6]では側枠は一体の鋳鋼製だったが、設計当時の日本の車両メーカーでは大型の台車枠を一体で鋳造可能なメーカーは一部に限られた[注釈 7]ため、接合部分の増加による強度・保守上の不利を承知でこのような設計が採用された[注釈 8]。
ばね装置は軸箱上部に単列式のコイルばねを軸ばねとして内蔵し、側枠中央部に短リンク式の揺れ枕吊りを下げて下揺れ枕と連結、ボルスタからの荷重を上揺れ枕と下揺れ枕の間に挿入された重ね板ばねを枕ばねとして弾性支持する構成である。
この系統の台車にはいくつもの利点があった。一般的な断面形状の規格鋼材と鋳鋼部品によって主要部が構成されているため材料の入手性が良く、軸距変更も側梁の鋼材寸法を伸縮することで比較的容易に行えた。また、軸箱を連結する釣り合い梁(イコライザ)を持たないためばね下重量が最小限に抑えられて軌道破壊が少なく、消耗品であるブレーキシューの交換も車両側面から容易に行えた。
ただし釣り合い梁を省略したために、軌道条件の特に劣悪な線区での軌道への追従性や乗り心地では従来型の台車に若干見劣りした。このため、軌道保守が最悪の水準にあり、さらにペデスタルの整備状態が悪化していた戦後の混乱期などには、特にばね下重量の大きな電車用派生形式各種で、走行中の軸箱が上下に踊り跳ねて大きく揺れる現象が多発した。
また、軸箱の上に軸ばねが直接乗っている構造には、理想的に軸箱の中心に力が作用していない場合には、軸箱を傾ける作用が発生し偏磨耗が起きるという問題もある。この問題は、後にTR40などで採用されたウイングばね式軸箱支持装置で解決された[1]。
さらに、軸箱部と側枠の接合部の設計が難しく、鋳物部品は接合部を平削盤によって仕上げねばならなかった。加えてばね帽の内径寸法についても、コイルばねを収める関係上精度が求められるため中ぐり旋盤による仕上げを要した。このため、これらの工作機械(特に平削盤)を各工場に備えていた国鉄はともかく、設備の貧弱な地方私鉄ではこれらの部品が破損した際に代品を自社工場で製造することができず、修理のためには相応の設備のある車両メーカーなどに依頼する必要があった。
接合部の設計については、初期形で構造欠陥が判明している。1929年のスハ32系第一陣製造時に設計されたもの(図面番号VA3058)について、就役後の検査で、軸箱部の鋳鋼製部品が側梁に対し線路の外側に飛び出す方向に徐々に開くように変形する、という問題が露呈した。これは大荷重時などに曲線通過で車軸に横圧がかかった際に鋳造部品の強度不足から生じる変形であった。
初期型では、それぞれ側梁の形鋼が外側に、一体鋳鋼製の軸箱部側の接合面が内側に来るように重ね合わせ、これらを貫通してリベットで接合していた。これに対し、1930年以降に製造された改良型(図面番号VA3062)では軸箱部を形鋼の外側から装着するように設計変更し、中央部に補強リブを設けて問題の解決を図った。伴って形鋼は装着部分の下フランジを干渉しないように削り取られている。
さらにスハ32800形[注釈 9]に使用された台車(図面番号VA3062の1932年度以降及び図面番号VA3067)では、工作の簡易化のために軸箱守控の形状変更が行われた。従来直径50 mmの丸棒をロックナットつきの3/4インチボルトで締結していたものを、両端を折り曲げた16×60 mmの平板2枚で軸箱守下端を挟んでボルトで締結する方式に改め、伴って軸箱守のこの部分も設計が変更されている。
このように、初期こそ当時の技術では予見が困難なマイナートラブルが発生した鉄道省系客車・電車用ペンシルバニア形台車であったが、上述の通り製造・保守面での多大なメリットがあったため、直営工場レベルで旋盤などの工作機械を完備していた鉄道省では特に好まれ、長く用いられることになった。
鉄道省は日本内地向けのみならず、依頼されて設計を担当した華中鉄道向け客車[注釈 10]にまで同種設計の台車を採用したほどである。
その他の特筆事項としては、車軸に従来は荷物車などに限定して用いられていた、12 t長軸形と呼ばれる大荷重対応のもの[注釈 11]が標準採用されたことが挙げられる。これにより、従来は各軸の荷重上限の制約から3軸ボギー車とする必要があった20 m級荷物車の2軸ボギー化が可能となった。
ブレーキシリンダーは従来通り車体装架で、台車本体には両抱き式の踏面ブレーキによる基礎ブレーキ装置を備えるのが標準である。
昭和初期を代表する国鉄制式台車であり、下記の通り非常に膨大な数の派生形式が設計された。
鉄道省 → 国鉄での大量採用に反し、戦前の私鉄においては前述の通り工場レベルでの保守に難があり、電車用としてみた場合必ずしも充分な強度が得られない[注釈 14]この種の台車は好まれず、実用例も少数に留まっている。
1930年に参宮急行電鉄が製造したサ3000・ク3100形用住友製鋼所KS-76Lが日本における私鉄向けペンシルバニア形台車の第1号と見られているが、これは一体鋳鋼製台車枠を備えTR23よりもむしろペンシルバニア鉄道で採用されていたオリジナルに近い仕様であった。これに対し、1933年に九州産業鉄道が製造した九州産業鉄道オハフ1形客車[注釈 15]に採用された台車はTR23の設計に忠実に従っており[注釈 16]、これ以降戦前の日本で製造された私鉄向けペンシルバニア形台車は全てTR23の基本設計に従ったものとなった。もっともその製造数は少なく、1936年製の富山電気鉄道モハ500形[注釈 17]が日本車輌製造製のTR25相当品を、1937年に日本車輌で製造された三菱鉱業ナハ1形がTR23相当品を、1941年に西武鉄道(初代)が製造したモハ200形がTR25と同系の台車[注釈 18]をそれぞれ製造メーカーの推奨に従って採用し、更に戦時中の1944年に日本鉄道自動車が軸距を詰めたモデルを幾つかの会社に納入した程度で、いずれも少数派に留まった。これに対し戦後はモハ63形電車の私鉄割り当てでDT13の採用実績が増え、その後空気ばね化など独自改造を加えた例は見られたものの、戦後の台車メーカーによる新型台車開発の激化もあって、これらに改良を加えたモデルを新造した例は一時期の東武鉄道の新造車に採用されたに留まる。
※流用品・他事業者からの中古品を使用する車両を含む。
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