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回廊列車(かいろうれっしゃ、独: Korridorzug)とは、本来は国内列車であるが、さまざまな理由により、国外の路線を経由して運行される旅客列車のこと。
そのほぼすべてが早くから鉄道が建設され、なおかつ2度の世界大戦で、国境が絶えず変化したヨーロッパにある。「廊下列車」(ろうかれっしゃ)とも呼ばれる。国際線旅客機の鉄道版(飛行機を降りて、通関及び入国手続きをするまでは発地国にいる)である。
通常、回廊列車が経由する国外の路線上の駅は、全て通過扱いで乗降はできないが、その代わりに出入国手続が不要となっている。
回廊列車が成立する理由としては次のようなものがある。
シェンゲン協定発効によって国内扱いにする必要がなくなり廃止された事例もある。
国際列車であるが、経由する国家との合意の上で、国内列車の扱いにするため、通常は乗車に必要な運賃・料金の支払いのみで、パスポートやビザ、出入国手続は不要である。代わりに、亡命や不法出入国を防ぐ為、当該国で乗客が降りられないような措置が必要である。
いずれも現存例はないが、国外路線の通過中に運転上の理由などで停車する列車の場合、乗客がみだりに車外に出ないよう、車両の乗降口に施錠することがあった。このような列車は「閉鎖列車」「封印列車」と呼ばれることもあった。
また、通常の国際列車に、回廊列車扱いとなる車両を併結する場合もあった。この場合、国外路線の通過中は当該車両の出入口(側面の乗降口と他の一般車両との間の貫通扉)に施錠されることが多く、「閉鎖車両」と呼ばれた。
現在も一度国外に出てから国内に戻る運行自体は続けられているが、シェンゲン協定により入国審査が廃止された結果「回廊列車」として扱う必要がなくなったもの。ユーロシティ(旧TEE)に多い。
第二次世界大戦後のドイツでは四分割統治時代に各占領地域を結ぶ連絡列車の運行が始まり、1949年の両ドイツ政府樹立以降も西ドイツから東ドイツ領域内を通過して西ベルリンの数駅に停車し、再び東ベルリンの国境駅でありトランジット通行が可能であったフリードリヒ通り駅に至るベルリン連絡のためのドイツ領域通過列車が1989年まで存在した。しかしながら当時西ドイツは東ドイツを主権国家として承認しておらず[2]、また当時の西ベルリンは事実上西ドイツの飛び地ではあったものの、国際法上はアメリカ・イギリス・フランスの三ヶ国の占領下にあったため、この列車は「回廊列車」としない。事実、この列車の車内では旅券・査証の審査が東西ドイツ双方で行われ、食堂を除く乗務員・審査官・国境警備隊等が全て交替勤務するなど、回廊列車の定義とは異なる運行形態がとられていた。
また東西ベルリンでも分割統治時代、ベルリン地下鉄6号線・8号線(当時)およびベルリンSバーン1号線・2号線(当時)は、乗客の主体が西ベルリン市民でありながら東ベルリン地域を通過する線形が保たれ、紆余曲折を経ながらも東ベルリン側の駅ホームは撤去されないままに列車が通過していたため、幽霊駅と呼ばれていた。閉鎖された駅は東側の国境警備隊が24時間警戒にあたっていた。なお、1984年まではSバーン1号線・2号線の運行管理を東ドイツ国営鉄道が行っていた。こちらは旅券・査証の審査は行われなかったが、やはり「回廊列車」とは定義できない。
いずれも東西ドイツ統一により通常の国内列車となり、旧東ドイツ側の駅でも利用可能になっている。
イスラエルのテルアビブ・エルサレム高速鉄道は途中パレスチナ(ヨルダン川西岸地区)を通っているが、経由地はイスラエル軍の実効支配下にあり、事実上国内列車として運行されている。
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