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ドイツ・ベルリンの都市近郊鉄道 ウィキペディアから
ベルリンSバーン (ベルリンエスバーン 独: S-Bahn Berlin) は、ドイツの首都ベルリンにおける都市高速鉄道網(Sバーン)である。ドイツで最初のSバーンであり、第三軌条方式による電化が採用されている。
ベルリンのSバーンは、東西ドイツ統一以降も数年間は旧西ベルリン側と旧東ベルリン側で別々の事業者が運営していたが、1994年1月1日にドイツ鉄道 (DB) が発足したことで同日より同社による一元運営となり、さらに1995年1月1日からはDBの完全子会社であるS-Bahn Berlin GmbH(Sバーンベルリン社)に移管されている[1]。
1995年当時の年間輸送量は約2億4500万人であったが、その後毎年、年平均2%程度の利用客増加があり、10年後の2005年の年間輸送量は3億5600万人であった。ただしこれは、Sバーン網の復活による総営業距離の伸びを考慮する必要がある。2006年の年間輸送量は、ドイツで開催されたサッカーワールドカップの効果もあり、前年比5.3%増の約3億7500万人(1日平均で約100万人)を輸送し、1995年以降で最高となった。ただし、ベルリンのSバーンとして最も利用が多かったのは、第二次世界大戦中の1943年で、年間約7億3700万人(1日平均で約200万人)の利用があった。
ベルリンのSバーンは各駅停車で、一部区間でのみ快速運転が行われている[2]。路線によっては、ベルリン市内と郊外を結ぶ中・長距離列車(REまたはRB)が快速の役割を果たしている。
(これは、東京における京浜東北線と東海道線・宇都宮線・高崎線・上野東京ライン、あるいは総武緩行線と総武快速線の関係に近い。)
また、土曜・休日には、終夜運転が実施される。
ベルリンSバーンには、以下の16系統が設定されている(2020年10月ダイヤ改正時点。公式サイト路線図)。一部の系統では、途中駅で折り返し運転となる列車も設定されている。
左側が北方向、右側が南方向である。
左側が西方向、右側が東方向である。
ドイツの鉄道は右側通行であるため、外回り・内回りは、日本とは逆になる。
区間はSバーン運転区間に限る。
ベルリン市街の中心部の地下を南北に貫く、Sバーンの重要路線である。沿線にはフンボルト大学ベルリン、ウンター・デン・リンデン、ポツダム広場、ブランデンブルク門といった観光名所のほか、国会議事堂などの政府・行政機関、あるいは商業施設や企業のオフィスなどが集中しており、利用客も多い。
Sバーン専用の複線路線である。北側のフンボルトハインではシュテティーン線に直通、南側のアンハルト駅では二手に分かれ、ヴァンゼー線とアンハルト線に直通している。また、フリードリヒ通り駅でベルリン市街線(シュタットバーン)と直交する。
南北地下線の構想自体は19世紀から存在するが、アドルフ・ヒトラー政権による社会基盤整備の一環として、また、ベルリンオリンピックを控えての都市交通の拡充のため建設された。オリンピック開幕直前の1936年7月に北半分のウンター・デン・リンデン駅(現:ブランデンブルク門駅)まで開業、1939年に2段階に分けて延長され、第二次世界大戦勃発直後の同年10月に全通した。
「ベルリンの壁」時代(1961年 - 1989年)は、西ベルリン側の路線となっていたが、地下線の大部分は東ベルリン側に存在していたため、東ベルリン側の駅は検問所が置かれたフリードリヒ通り駅を除き、全て閉鎖されていた。ベルリンの壁崩壊後は、閉鎖されていた駅は順次、営業を再開した。
ベルリンとバルト海沿いの港町シュテティーンを結ぶ約134 kmの路線の内、ベルリン側約23 kmにあたる。ベルリン北東部のパンコウ区などを経由して、ブランデンブルク州のベルナウに至る。
1924年8月に電化され、電車によるSバーンの運行が始まった。もともとはシュテティーン駅(北駅の旧称)を起点としていたが、南北地下線の開通でひとつ手前のフンボルトハインから同線と直通するようになる。
戦後、ボルンホルム通り駅から環状線のシェーンハウザー・アレー駅の間に連絡線を敷設。壁建設ではボルンホルム通り駅が東側管轄地域となり駅営業を休止、西側Sバーンは通過扱いとし、東側は西側路線と離れた位置に線路を移設し、路線が分断された。現在は列車線とSバーンの路線別複々線となっている。
ベルリンとドイツ北部の港町シュトラールズントを結ぶ約220 kmの路線の、ベルリン側約26kmにあたる。ベルリン北部のヴィテナウ地区などを経由して、ブランデンブルク州のオラーニエンブルクに至る。1925年6月 - 10月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。ボルンホルム通りからシュテティーン線経由で都心方向へ向かう。
ベルリンの壁建設でフローナウ(西ベルリン側)とホーエン・ノイエンドルフ(東ドイツ側)の間で分断された。この時、オラーニエンブルクへは外環状線を経由し、シュテティーン線と接続することで運行を継続した。なお、東西再統一後、この区間が再び接続されたため、もとの運行形態に戻り、外環状線経由の列車はビルケンヴェルダー駅止まりとまった。
本来、列車線とSバーンの路線別複々線であるが、ボルンホルム通り - ホーエン・ノイエンドルフの間は壁建設で列車線が剥がされたままになっている。
ベルリンの北西の町クレメンを結ぶ約37 kmの路線のうち、ベルリン側約19 kmにあたる。1927年3月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。シェーンホルツから北部線・シュテティーン線経由で都心へ向かう。
もともとヘニヒスドルフから数駅先のフェルテンまでがSバーン運転区間だったが、壁建設でハイリゲンゼー(西ベルリン側)とヘニヒスドルフ(東ドイツ側)の間で分断された。その後、東側区間も1983年に電車運転を取りやめた。また西側区間は1984年のBVG移管時に引き継がれず廃止された。東西再統一後、1995年にテーゲルまで、1998年にはヘニヒスドルフまで復活したが、その先は見送られている。もともとは列車線と共用の複線だったが、現在は単線となり、また途中のテーゲル附近には踏切が存在する。
ベルリン市街中心部を東西に貫く高架線で、Sバーンの重要路線である。 沿線にはベルリン動物園、シャルロッテンブルク宮殿、カイザー・ヴィルヘルム記念教会、ティーアガルテン、ベルリンテレビ塔、シャルロッテンブルク宮殿といった観光名所のほか、南北地下線同様に、政府・行政機関、あるいは商業施設や企業のオフィスなどが多く、利用客も多い。また、2006年5月に開業したベルリン中央駅も通る。
Sバーンと長距離線の路線別複々線である。東側のベルリン東駅でシュレージエン線・プロイセン東線・同線経由ヴリーツェン線と直通、西側のヴェストクロイツでヴェツラー線・シュパンダウ郊外線と直通する。フリードリヒ通り駅で南北地下線と直交する。
19世紀後期に、分散していたベルリンの鉄道ターミナルを都心経由で結ぶべく計画・建設され、1882年に開業した。大都市の中心部を貫く鉄道は、当時としては世界的にも珍しいものであった[要出典]。「都市鉄道」を意味する "Stadtbahn" は、現在の "S-Bahn" の語源になったとされている。もっとも、ベルリン以外の都市ではS-Bahnは高速鉄道 (Schnellbahn) が語源とされており、ドイツ語辞書でもこちらが記載されている[3]。
ベルリンの壁時代は、レールテ駅(現:中央駅西ベルリン側)とフリードリヒ通り駅(同東ベルリン側)の間のシュプレー川が東西境界となっていた。ただし、西ベルリン側の電車は検問所があるフリードリヒ通り駅まで直通させ、厳重な管理の下で東ベルリン側と隔てられていた。ベルリンの壁崩壊後は再び1本の路線として運営され、1990年代には列車線の電化や駅の改装をはじめとする大幅な改良工事が実施された[4]。
ベルリンとシュレージエン地方のブレスラウ(Breslau 現ポーランド領ヴロツワフ)を結ぶ約329 kmの路線(ベルリン-グーベン線)の、ベルリン側約24 kmにあたる。ベルリン東駅からその東部のケーペニック (Köpenick) 地区を経由してブランデンブルク州のエルクナーに至る。1928年7月に電化され、電車によるSバーンの運行がはじまった。なお、ベルリン東駅 - オストクロイツ間のSバーンは、ベルリン東線とは別に当線用の複線もあって路線別複々線の状態であった。同区間は改良工事を経て現在は方向別複々線で運行されている。
ベルリン市街を取り巻く形で敷設されている環状路線であり、環状線の内側が都心部となる。路線の総延長は山手線よりもわずかに長い。ノイケルンで分岐しゲルリッツ線バウムシューレンヴェークへ至る連絡線があるほか、放射方向の路線との連絡線がトレプトウ公園 - シュレージエン線/プロイセン東線ワルシャワ通り、トレプトウ公園 - ゲルリッツ線プレンターヴァルト、シェーンハウザーー・アレー - シュテティーン線ボルンホルム通りの各所にあり、列車が直通している。なお戦前にはパーペ通り(現・ズュートクロイツ)およびシェーネベルクの両駅から北へ枝線が分岐し、両方からの枝線が途中で合流してベルリン・ポツダム駅(環状線駅)に至る路線があった。これは環状線本線が市外周部を囲む路線だったために市中心部のポツダム広場への連絡を図ったもので、列車の運転も休日を除きベルリン・ポツダム駅から出発した列車が内回り・外回りともに環状線をほぼ一周 してベルリン・ポツダム駅に戻る運行形態で、純粋な環状運転ではなかった。
放射方面の各線とは、オストクロイツ、ヴェストクロイツ、ズュートクロイツは直角交差だが、ゲズントブルンネンはシュテティーン線と方向別ホームによる対面乗り換えとなっている。
19世紀中ごろに、ベルリンから放射状に延びる鉄道路線を相互に連絡するために計画・建設され、1871年から数年間かけて順次開業し、1877年に環状線が 全通した。環状線の開業までは、ベルリンの鉄道は、ベルリンと郊外あるいは他都市を結ぶ列車が主流であったが、環状線の開業により、各路線を相互に連絡する旅客・貨物列車が運転されるようになったほか、ベルリンの都市鉄道としての役割も担うようになった。そのため環状線は、現在のベルリンSバーン網のルーツとされている。
ベルリンの壁建設により、北側がゲズントブルンネン(西ベルリン側)とシェーンハウザー・アレー(東ベルリン側)の間 で、南側がトレプトウ公園(東ベルリン側)とゾンネンアレー(西ベルリン側)の間で分断され、東西で別々に運行されていた。西ベルリン側の環状線は1980年に運行中止となり、壁崩壊時点でも復旧していなかった。
ベルリンの壁崩壊以前から環状線の復旧工事は西側で一部着手されていたが、壁崩壊により工事が強力に推進され、1993年にノイケルン - ヴェストエント間が再開、以後9年の歳月をかけて、2002年のヴェストハーフェン(Westhafen)- ゲズントブルンネンの再開により全線復旧し、41年ぶりの全線開通となった。2006年には、45年ぶりの完全環状運転も復活している。
Sバーンと列車線の線路別複々線である。列車線はトレプトウ公園 - ゾンネンアレーの間で途切れているため、完全な環状線ではない。また、フランクフルター・アレー - トレプトウ公園の間は東ベルリン時代に路線が剥がされている。
環状線の更に外側の郊外部を走る形の路線である。列車線は環状路線を形成しているが、Sバーンが走るのはそのうちの一部区間のみであり、すべて放射状の路線との直通運転になっている。Sバーンが走るようになったのは東西分断後であり、ホーエン・ノイエンドルフ - ブランケンブルク間は1961年、ヴァルテンベルク - シュプリングプフール間は1984・1985年からである[5]。Sバーンの線路と列車線の線路は分離されているが、列車線は全線複線であるのに対し、ホーエン・ノイエンドルフ - ブランケンブルク間の一部には単線区間が存在する[6]。
電化路線のみ
以下の路線は、復活したとしても2020年以降か、廃止の見込みである。ハンブルク線・レールテ線は厳密には休止線ではなく、列車線が整備され近距離列車が多数運行されている。ポツダム線は復活する場合にはSバーンではなく列車線としての復旧となる。フリートホーフ線のみが将来S25系統がテルトウ市駅から延長された時に、一体化して復活する計画がある。
ベルリンSバーンでは専用に設計・製造された電車が使用されている。車両塗装はドイツ鉄道の標準塗装を採用する他都市と異なり、伝統色である黄色と赤のツートン塗装を維持している。
戦前から使用されてきた旧型車(475, 477など)は、488形電車に改造された車両を除き、2002年までに全て営業運転から撤退している。
ベルリンSバーンは、ベルリン市内とブランデンブルク州の公共交通機関によって組織される「ベルリン・ブランデンブルク運輸連合」 (VBB: Verkehrsverbund Berlin-Brandenburg GmbH) の一員であり、チケットは他の加盟交通機関と共通化されている。
またベルリン近郊の交通機関の運賃は基本的に「ゾーン制運賃」が採用されており、乗車券に指定されたゾーン(Aゾーン(環状線内)・Bゾーン(環状線外のベルリン市内)・Cゾーン(ベルリン市外))のどこからでも乗車でき、どこでも降車できる。
つまりSバーン、地下鉄、近郊電車、トラム、バス、 フェリーは、追加の初乗運賃なしで乗り換えが可能である(ただし短距離券の扱いは異なる)。
また観光に便利な一日切符の設定もある。打刻当日から翌日の午前3時まで使用可能である。また追加料金を払うことで、自転車の車内持ち込みも可能である(混雑時間帯を除く)[9]。
ヨーロッパでは一般的な「信用乗車方式」が採用されており、駅には改札はないが、抜き打ちの検札が行われることがある。そこで不正乗車が発覚した場合は、理由のいかんにかかわらず罰金を徴収される(無賃乗車の罰金は60ユーロ[10])。 ドイツの鉄道における列車は多くの場合1等車と2等車が連結されているが、ベルリンのSバーンは2等車のみである。
ベルリンの鉄道は1838年に、ポツダムへの路線(ベルリン・ポツダム駅 - ポツダム)が開通したことにはじまる。以降、ハンブルク、シュテティーン、アンハルト、ゲルリッツなど国内各地へ放射状の路線網が建設されてゆく。これらを環状に結ぶ路線も整備された、1850年代にはターミナル同士を直接結んでいたが、市街地の発展に応じ、1870年代には各起点駅から一駅ほど郊外側を結ぶようになった。現在の環状線である。一方、シュレージエン駅からシュプレー川に沿って、都心を西に横断する路線が建設された。1882年に完成した市街線である。
本来、長距離輸送を目的とした鉄道ではあるが、ベルリンでは、ここに市内移動用の列車を走らせた事が特徴である。1871年の環状線での運行が起源とされ、のちにSバーンとして発展してゆくことになる。施設面でも、長距離線と市内移動用路線の路線別複々線を備えるものが多く なった。
列車の電化は1903年にアンハルト線ポツダム(環状線)駅 - リヒターフェルデ東で実施されたものの、その後は大戦などの影響で途絶える。本格的なものは第一次大戦後の鉄道国有化後である。利便性を向上し、市内の他の交通機関に対抗するためであった。
1924年8月8日、シュテティーン線シュテティーン駅 - ベルナウで電車運転が開始され、これがSバーンのはじまりとされる。つづいて、翌1925年には北部線、1927年にはクレメン線と北部方面の電化が完成。そして、1928 - 1929年に都市線など東西方向の各線と環状線が電化され、のちのET・EB・ES165形(ET165形)が大量に製造された。これらは「大電化」と呼ばれる。
その後、1933年に、ポツダム線とそれに並行するヴァンゼー線が電化され、ほぼ戦前の電化区間が揃うことになる。なお、レールテ駅を起点とする路線、および非電化区間への直通するSバーンは蒸気機関車牽引の列車のままであった。
1933年、ナチスが政権をとると、ベルリンでのオリンピックの開催と、それに合わせた都市基盤整備が行なわれた。この一環として、都心を南北に貫く地下線が建設され、1936 - 1939年に開通。北側からはシュテティーン駅を起点とする各線が、南側からはポツダム駅を起点とするヴァンゼー線とアンハルト線が乗り入れた。なお、この地下線は、アンハルト駅 - ゲルリッツ駅、レールテ駅 - ポツダム広場などにも建設計画があり、一部着工したものの完成することはなかった。
その1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦がはじまる。末期にはベルリンで激しい地上戦が行なわれ、鉄道施設は崩壊した。とくに南北地下線はベルリン市街戦において運河を潜る区間がナチス親衛隊によって爆破され水没、避難民など多数の犠牲者を出し、また復旧まで時間を要することになる。
1945年5月8日、ドイツが降伏し、ドイツとその首都ベルリンは、それぞれ戦勝4か国(米国、英国、仏国、ソ連)に分割統治されることになった結果、2つの政治体制が生まれ、1949年5月には米・英・仏の統治地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)、同年10月にはソ連の統治地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)としてバラバラに独立。鉄道も西側はドイツ連邦鉄道 (DB) となり、東側は引き続きドイツ帝国鉄道 (DR) の名称が使用され続けた。東西ドイツ間の行き来は大きく制限されることになる。
しかし、ベルリンに関しては米・英・仏の統治地域が西ベルリン、ソ連の統治地域が東ベルリンになったものの、名目上は4か国による統治のままであった。また、ベルリンは東ドイツの中にあるため同じ政治体制の両者は一体化したが、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)の間の往来も場所は限られているが自由だった。鉄道は運営一元化の観点から、東西ベルリンともにSバーン・長距離線が東ドイツ国営鉄道(DR)、Uバーンがベルリン交通公社(BVG)による運営となった。しかし後者は東西ベルリンが異なる政治主体となった時に分裂している(以下、単にBVGと表記した時は西側のそれを指す)。
戦災、ならびに敗戦後ソ連軍による施設の接収もありズタズタになったSバーンは、1947年ごろには戦前の規模を取り戻している。またマールスドルフ - シュトラウスベルク、グリュナウ - ケーニヒス・ヴスターハウゼンなど、おもに東側で路線の延長が行なわれている。一方で、長距離線は戦前のターミナルの殆どが西ベルリン側になったため、復興は最低限の区間に留まった。
このように東西問わずベルリン市民の足としてSバーンは復興した。しかし、東西ベルリン間の通行が自由なことが、東ドイツ国民(東ベルリン市民含む)の西ドイツへの逃亡を、また逆に西側諸国のスパイの東ドイツ入国を許すことになっていた。これは東ドイツにとって死活問題であった。
それらを阻止するために、東ドイツの手で建設されたのがベルリンの壁である。1961年8月13日未明、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)間の通行は、突如として全面的に遮断された。Sバーンも分断され、西側区間と東側区間で完結するようになる。この時に、リヒターフェルデ - テルトウ、シュパンダウ以西、ヴァンゼー以南など東西を跨ぐ末端区間は廃止になっている。
しかし、壁建設後もSバーンは全てがDRの経営であることに変わりはなかった。そのため、西側では「Sバーンの運賃は鉄条網(壁)に払われる」「ウルブリヒトには1ペニヒも払うな」としてボイコット運動が行なわれた。また並行してバスやUバーンなども整備されたため、利用客は減少の一途を辿る。赤字額は年々膨らむ一方となり、保守も満足に行なえない状態になった。それでもDRによって細々と運行が続けられていたが、ついには1980年9月に待遇改善を求める西ベルリン居住の従業員によるストライキが発生。これを機に大多数の従業員が解雇され、環状線など多くの路線が休止(廃止)となった。そして、壁建設前は70万人いた利用者は1983年には1万人を割ってしまった。
ここに至り西側当局も市内約150kmにおよぶSバーン施設が廃墟となることを放置できず、東側との交渉に入り、1984年1月から西ベルリン側のSバーンについては、西ドイツ政府の補助のもとにBVGが列車運行を引き継ぐことになった。長距離線はDRの運営のまま残った。なお、当時西ベルリンの動物園駅と西ドイツのハンブルク・ハノーファー・ニュルンベルクを結ぶ回廊列車が運行されていたが、列車の運行はフリードリヒ通り駅を起点としていた。
当初、市街線・ヴェツラー線(フリードリヒ通り - ヴェストクロイツ - ヴァンゼー)、ドレスデン線(アンハルト駅 - リヒテンラーデ)で営業を開始、以降、ヴァンゼー線(アンハルト駅 - ヴァンゼー)、南北地下線・北部線(アンハルト駅 - ゲズントブルンネン - フローナウ)が復活した。これが西ベルリンにおけるSバーンの最終形となる。車両の面では、480形電車が数編成投入された。
一方東側では、ベルリンの壁建設を期に外環状線の一部区間を電化してSバーンが乗りいれた。その後も、ヴリーツェン線の電化など運転区間の拡大が実施された。これは、ベルリンの地下鉄網が連合国の取り決めにより一部区間(U2の東側区間および全線が東側であったU5)を除き西側管轄で、東側はSバーンが主力交通機関であったためである。しかし車両の面では前述のボイコット運動による西側路線の需要減少およびソ連からの接収車両の返還による余剰車両の発生、新形式ET170の開発失敗もあって、冷戦末期の485形登場まで全く置き換えが進まなかった。そのほかの背景に電車の生産能力不足もあり、Uバーンにおいても壁崩壊直前のU5(東側管轄)延伸開業時、西ベルリンBVGより中古車100両以上の譲渡を受けている。
この節の加筆が望まれています。 |
ベルリンの壁崩壊およびドイツ再統一後もしばらくは西ベルリン地区はBVG、東ベルリン地区はDRの運行のまま残ったが、1994年に旧ドイツ連邦鉄道(DB)およびDRの合併・民営化によって成立したドイツ鉄道(DB)発足に伴いBVGの路線もDBに移管された。1995年以降はDBの完全子会社であるSバーンベルリン社によって運行されている。
壁により分断されていた路線はその多くが復活したものの、Sバーンに並行していた列車線は未だに復活していない区間も多い。
ベルリンの南西に位置するポツダム・グリーブニッツゼー駅付近には、ベルリンSバーン博物館があった(同所はドイツ鉄道との賃貸契約が更新されず閉鎖。別所での再開は2021年にずれ込む見通し[15])。
ベルリンSバーンが架線集電式ではなく第三軌条式電化を推進した背景には将来の市内中心部への地下乗り入れ時にトンネル断面を小さくする意図があったといわれる。ハンブルクSバーンも当初は架線集電式を採用したにもかかわらず、同様の理由から途中で第三軌条式に変更している。しかし新路線建設費低減の一方で特殊規格の車両仕様を生み、交流電化の進んだ現在では車両運用も限定されてしまうことから、戦後にSバーン網を整備したミュンヘンなどのドイツ他都市では採用されなかった。
日本では明治時代に、東京の中央停車場(現在の東京駅:1914年(大正3年)開業)を建設するにあたり、頭端式ではなく、通過式を採用することで計画された。これは、ベルリンの市街線(シュタットバーン)の建設に携わった鉄道技師で、20世紀初頭に来日したお雇い外国人であるヘルマン・ルムシュッテルやフランツ・バルツァーのアイデアで、二人は当時のヨーロッパ各都市での頭端式ターミナルの失敗とシュタットバーンの利点を念頭に強力に提言したとされる。八重洲口側に客車ヤード・貨物ヤードを設け、将来の需要増大の用地確保に備えたのも、先を見据えたバルツァーのアイデアである。もっとも、バルツァーがデザインした当初の和風建築の駅舎案、および東海道本線と東北本線との列車線直通運転は結果的には採用されなかった。
東京駅から新橋駅に至る赤煉瓦の高架線もバルツァーが基本設計し、彼の薫陶を受けた日本人技術者により建設され完成した。そのため、その構造・外観はベルリンのシュタットバーンと酷似している。東京 - 御茶ノ水間は一見煉瓦造り高架橋であるが、レンガ貼りの鉄筋コンクリート製でシュタットバーンの仕様とは異なる。
ルムシュッテルとバルツァーは当時未完であった山手線の環状運転化などの東京の鉄道路線網の整備を提言した。当時のベルリンの鉄道網を理想形に修正した内容だが、都内の国鉄鉄道網設は総武快速線の地下乗り入れをもってほぼこの二人の立案したスケッチ通りの路線網が完成している。実現していなかった東海道本線と東北本線の直通運転も、2015年3月上野東京ラインの開業とともに開始された。
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