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細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、歌人。
『絹本着色細川幽斎像』(天授庵所蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 天文3年4月12日(1534年6月3日)[1] |
死没 | 慶長15年8月20日(1610年10月6日)[2] |
改名 | 三淵万吉 → 細川万吉(幼名) → 藤孝 → 長岡藤孝 → 幽斎玄旨(号) |
別名 | 与一郎(通称) |
戒名 | 泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士 |
墓所 |
熊本県熊本市の立田自然公園(泰勝寺跡) 京都府京都市の南禅寺 京都府京都市の大徳寺高桐院 |
官位 | 従五位下・兵部大輔、従四位下・侍従、大蔵卿法印、贈正二位 |
幕府 | 室町幕府、江戸幕府 |
主君 | 足利義輝 → 義昭 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康 |
氏族 | 三淵氏異説あり → 細川氏(細川刑部家)佐々木源氏大原氏説あり → 長岡氏 |
父母 |
父:三淵晴員、母:智慶院(清原宣賢娘) 養父:細川晴広 |
兄弟 | 宮川尼、三淵藤英、佐々木越中守室、玉甫紹琮、梅印元冲、長岡好重、土御門久脩室 |
妻 | 沼田麝香(光寿院) |
子 | 忠興(三斎)、興元、伊也(一色義定室)、幸隆、千、孝之、加賀、栗 |
幼名は万吉(まんきち)。元服して藤孝を名乗りその後長岡に改姓。雅号は幽斎。法名を玄旨という。(なお幽斎は1573年に長岡に改姓し[3]、1582年に幽斎を名乗り、細川姓に復したのは幽斎死後の忠興の代[4]である。)
/ 長岡 藤孝(ながおか ふじたか) / 長岡 幽斎(ながおか ゆうさい) /
初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。
天文3年(1534年)4月12日[1]、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生[1]。天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となったという。しかし、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広を養父と見る説も近年有力視されている(#系譜)。天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、与一郎藤孝を名乗る[5]。幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される[6]。
永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。
その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。義昭が征夷大将軍に任じられた後(つまり10月18日[7]より後)藤孝は9月29日に[8]岩成友通から奪還した山城国勝竜寺城を与えられ[9](言継卿記、天正9年(1581年)3月24日まで統治した[10]、その翌日には猪子兵助が点検のために入城している[11]。
義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。義昭が追放された後の10月10日に桂川の西の一職支配権を許されのを機に名字を改めて長岡藤孝と名乗った[12]。
8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。
天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。甲州征伐には一色満信と共に出陣。
同年正月12日付の信長から藤孝宛ての黒印状にて、尾張国知多半島で取れた鯨肉を信長が朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝にも裾分けする旨を述べている[13]。
天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、軍事力的劣勢に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の出自の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしないところがあったとする説がある[14]。
その後も羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。
幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。
慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。
幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月12日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。幽斎の抵抗を通して家康の統治権代行の正当性が、朝廷をはじめとして各方面に周知されることとなった点は石田三成にとって大きな痛手となった[15]。
忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得た。この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
幽斎の所領6000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の興元の下野国茂木藩1万石立藩の足しとして、あるいは慶長9年(1604年)に忠興から廃嫡された幽斎の孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料(3000石)として、受け継がれた。
京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓がある。その他に、孫で忠興の子忠利以降、子孫が肥後熊本藩54万石の藩主となったことから、熊本の立田山の麓に建立された細川家菩提寺の泰勝寺(現・立田自然公園)にも廟所が造営された。
江戸時代後期に編修された『寛政重修諸家譜』によれば、幽斎の父は三淵晴員(和泉半国守護細川元常の弟)[19]、母は智慶院(儒学者・国学者の清原宣賢の娘)である。同書の小記や享保年間に成立した『細川全記』などは、智慶院が将軍足利義晴の子をみごもったまま晴員に嫁いで幽斎を生んだと記しており[20]、事実ならば足利義輝、義昭の庶兄にあたる。
『寛政重修諸家譜』は、幽斎は7歳で伯父の細川元常の養子になったとする[19]。江戸時代前期に編纂された『寛永諸家系図伝』では、祖父の細川元有の養子となったとされる[19]が、元有は明応9年(1500年)に戦死しており年代が合わない。また、元常の実子とされる細川晴貞を養父と見る説もある[21]。この細川晴貞は天文19年(1550年)までは存在が記録されているため、(晴貞が元常の実子ならば)その生存中に元常がはたして幽斎を養子に迎えたかという疑問が生じるためである。
いずれにしろ幽斎は三淵氏から和泉守護細川氏の養子に入ったと長い間考えられていたが、そうではなく淡路守護細川氏につながる系統を継いだと考える説が近年有力になっている。『寛永諸家系図伝』編纂の際に息子の細川忠興が幕府に提出した文書には、「幽斎ハ、細川伊豆トヤラン、細川刑部少輔トヤランニヤシナハレ、御供衆ニ罷成候」とある。この「細川刑部少輔」については、従来『細川系図』の記載によって細川元常と理解されていた[22]が、三淵晴員も仕えていた将軍義晴の近臣(御供衆)に刑部少輔を称する細川晴広がおり、その父の細川高久が伊豆守を称している事実から、彼らが幽斎の養父・養祖父だったとする説である[23]。また、『永禄六年諸役人附』にも御供衆と記されている藤孝が外様衆の家格である和泉守護家を継いだとすることの不自然さを指摘する見解[24]もあり、近年有力視されている。伊豆守高久の父細川政誠は近江源氏佐々木一族の大原氏の出身であり、8代将軍足利義政が政誠を近臣に加えるために足利一門の細川名字を名乗らせるべく淡路守護細川氏の養子となるよう命じたという。この指摘によるならば、幽斎が養子となって継いだのは、和泉守護家とは系統の異なる淡路守護家の支流ということになる。
なお、幽斎の実父三淵晴員についても細川元常の弟とする説を疑問視して、播磨国に下向していた幕臣の三淵孫三郎(現在の系譜には記載されていないが、当時の文書から天文年間の三淵氏当主であった可能性が高い)の弟であったとする説[25]もある。この指摘が事実ならば、幽斎は実方においても和泉守護細川氏には繋がらない可能性がある。
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