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差分 ライオン (Panthera leo) はネコ目(食肉目)ネコ科ヒョウ属に分類される哺乳類である。オスであれば体重は250キログラムを超えることもあり、ネコ科ではトラに次いで2番目に大きな種である[1]。現在の主な生息地はサブサハラ、及び絶滅が危惧されているアジアの個体群であるインドのギル国立公園にの個体群があり、北アフリカから西南アジアにかけての個体群は有史時代に絶滅している。およそ1万年前の更新世まで、ライオンは人間に次いで地上で最も広く分布した陸上哺乳類であった。かつては、アフリカの大部分や、ヨーロッパ西部からインドにかけてのユーラシア、そしてユーコンからペルーまでのアメリカに分布していた[2]。ライオンは危急種であり、アフリカの生息域では過去20年で個体数が30-50%も減少している[3]。ライオンの個体数は指定された保護区や国立公園以外では維持できない。減少の原因は完全には解明されてはいないが、現在、生息地の減少や人との競合が最も大きな懸念となっている。
ライオンの野生下での寿命は10-14年程度であるが、飼育されている個体の寿命は20年以上になる。野生下のオスは常に他のオスと争い傷が絶えず寿命を大きく縮めているため、10年以上生きることは稀である[4]。
ライオンは通常、サバンナや草原地帯に生息しているが、低木地帯や森林などを利用することもある。ライオンは他のネコ科動物にはあまり見られない社会性をもっている。血縁関係のあるメスや幼獣、少数の性成熟したオスがプライド(群れ)を形成する。通常、メスの集団は狩りを共に行い、主に大型の有蹄類を狩る。ライオンは頂点捕食者でありキーストーン捕食者であるが、機会があれば腐肉を漁ることもある。ライオンが人を襲うことはほとんどないが、少数のライオンが人を襲うことがあることが知られている。
最も特徴的なことは、オスのライオンがたてがみにより容易に認識され、その容貌は人の文化の中で最も知れ渡った動物のシンボルの一つである。ラスコー洞窟やショーヴェ洞窟の洞窟壁画やなどに代表されるように、ライオンがかつて存在した場所では古代から中世にかけて、ライオンの描写が後期旧石器時代から見られる。彫刻や絵画、国旗をはじめ、現代の映画や文学などでも広く扱われている。ライオンはローマ時代から見世物小屋で飼育され、18世紀後半以降は世界中の動物園で見られる代表的な生き物である。また絶滅の危機に瀕しているインドライオンを繁殖させる計画が、世界中の動物園共同で行われている。
ジブチ、ガボン、トーゴ、モーリタニア、レソト[8][a 1]
壁画などから1万5000年前にはヨーロッパ広域にも分布し、5000年前には少なくともギリシャには分布していたと考えられている[6]。
全長はオス260-330センチメートル、メス240-270センチメートル[6][8]。尾長はオス70-105センチメートル、メス60-100センチメートル[5]。肩高オス80-123センチメートル、メス75-110センチメートル[5]。体重オス150-250キログラム[5]、メス120-185キログラム[6][8]。頭部は太くて短く、丸みを帯びる[6]。背面の毛衣は黄褐色や赤褐色、腹面や四肢内側の毛衣は白い[6][7]。耳介背面は黒い体毛で被われる[5][6]。尾の先端には房状に体毛が伸長し[5]、色彩は暗褐色や黒[7]。
出産直後の幼獣の体重は1-2キログラム[8]。幼獣には暗色斑が入るが、成長に伴い消失する[5][6][7]。
オスの成獣は頭部から頸部にかけて鬣(たてがみ)が発達する[5][7]。鬣は体を大きく見せたり頭部や頸部に対しての攻撃を防ぐのに役立つと考えられている[6]。
種小名 leo は「ライオン」の意で、本種そのものを指す。
2-7亜種(少数の標本から亜種が記載されたため、亜種インドライオンを除いた亜種を全て基亜種のシノニムとする説もある)に分かれる。[6][7]
草原や砂漠に生息する[6][7]。夜行性で、1日のうち20時間は木陰や樹上などで休む[5]。ネコ科では珍しくオス1-6頭、4-15頭のメスや幼獣からなる群れ(プライド、ハーレムの一種)を形成して生活し、さらに縄張り内では小規模な群れ(サブプライド)で分散し生活することが多い[6][7]。生後2-3年で群れから追い出されたオスは、別の群れに入るまでは同じ群れにいたオスと共同で生活する[6]。20-400平方キロメートルの広大な縄張りを形成して生活し、吠えたり尿を撒いて臭いをつけることで縄張りを主張する[6]。獲物が少なくなると1日中活動したり[8]、縄張りを拡大することもある[6]。オスは基本的に他のオスからメスを守る[6][7]。群れを乗っ取ったオスは群れ内の幼獣を殺し(子殺し)、これによりメスの発情を促し群れ内の競合相手をなくすことで自分の子孫を多く残すことができると考えられている。[6] 走行速度は時速58キロメートルに達する[5][6]。
食性は動物食で、主に体重50-500キログラムの中型から大型の哺乳類を食べるが[7]、小型哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫なども食べる[5][6]。また他の動物が捕らえた獲物を奪うこともある[6]。主に夜間に狩りを行うが[5]、草丈が長く身を隠せる茂みでは昼間も狩りを行う[6][7]。主にメスが集団で狩りを行い[7]、メスが扇形に散開しながら獲物に忍び寄る[6]。大型の獲物は吻端や喉に噛みつき窒息死させる[5][6]。捕らえた獲物は主にオスが独占する[5][8]。
繁殖形態は胎生。1回の交尾は約20秒で、1日に最高で50回以上交尾を行うこともある[6]。妊娠期間は98-120日[6][7]。プライドから離れ、1回に1-6頭(主に2-3頭[5])の幼獣を産む[6][7]。授乳期間は7-10か月[8]。メスは同じ群れの幼獣を一緒に育て、自分が産んだ幼獣以外にも授乳する[5][6]。幼獣は生後3か月で肉を食べられるようになる[6]。幼獣は上記のようにオスに殺されたりメスに放置されることが多く(特に獲物が少なかったり小型の場合)、生後1年以内の死亡率が60%以上[8]、生後2年以内の死亡率が80%以上[5] と成獣になる確率は低い[6]。オスは生後4-6年、メスは生後3年で性成熟する[7]。(飼育下では2年から2年半までに性成熟する傾向がある)野生下では15年以上生きる個体はまれだが[8]、飼育下では24年生きた個体もいる[5]。
開発による生息地及び獲物の減少、毛皮や肉目的の狩猟、娯楽としての乱獲、毒餌による中毒死、害獣としての駆除などにより生息数は減少している[5][6][8]。またセレンゲティ国立公園ではイヌ由来のジステンパーに感染し一時的に生息数が激減した[8][9]。亜種ケープライオンは1865年に、基亜種は1920年に絶滅した[5]。 亜種インドライオンは1900年に領主により狩猟が規制されたギルの森を除いて絶滅した[8][9]。第二次世界大戦以前は生息数が漸増傾向にあったが、第二次世界大戦後の人口増加による生息地の破壊、獲物の家畜との競合などにより生息数が減少した[9]。亜種インドライオンの生息地は国立公園として保護されているが[9]、生息地内に道路や鉄道、寺院があるため人の出入りがあり1988-1990年の2年間に人間が81回襲われた例がある[9]。現在は生息地の国立公園への追加指定や、国立公園内から人や家畜を放出する保護対策が進められている[9]。アフリカ大陸での1996年における生息数は5,000-10,000頭と推定されている[8]。亜種インドライオンの1963年における生息数は285頭、1969年における生息数は177頭と推定されている[9] 2005年に生息数は約350頭に回復した[11]。
ヘロドトスとアリストテレスは、ヨーロッパにはアケローオス川(アヘロオス川)とネッソス川(メスタ川)の間にだけライオンが生息していると記した[12]。この地のライオンは、紀元前480年にギリシャ征服のため行軍中のペルシャ軍の輸送隊のラクダを襲った[13]。
マサイ族では、人間の力を誇示する目的でライオン狩りをするといわれ、仕留めたライオンの鬣を頭に被り、祭りのような派手な祝いをする。
古来より紋章や文様に用いられている。また、特徴的な鬣を持ち凛々しい姿から「百獣の王」としてよく例えられる。古代エジプトでは人の顔、ライオンの体、鷲の翼を持つスフィンクスとして神格化された。日本の狛犬や沖縄のシーサーもインドでライオンを意匠化したものが中国経由で伝わったものと考えられる。
仏教においては文殊菩薩の乗騎とされ、仏画としてよく描かれている。また文殊菩薩の浄土清涼山には牡丹が咲くとされるが、獅子が百獣の王であるのに対し、牡丹は百花の王といわれる。
東アジアから東南アジアにかけては、獅子を芸能、舞踊、演劇、楽曲などとして取り上げるものも多く、美術作品の題材として取り上げられることもしばしばあった。古くは伎楽において、また後世においては能の石橋をはじめ、さまざまな獅子舞や、音楽作品として地歌の「獅子物」、長唄の「石橋物」等の作品群、また古典園芸植物にも獅子の名のつく品種名は少なくない。
キリスト教では、本種は聖マルコの象徴である。聖マルコはヴェネツィアの守護聖人であるため、サン・マルコ広場 にあるライオンの像を始め、ヴェネツィアのいたるところで本種の意匠を見ることができる。ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞もそれに由来する。
イングランド王室でも王冠をかぶったライオンが象徴として用いられているが、これはノルマンディー公時代から受け継がれており、現在のフランスのノルマンディー地方でも本種をあしらった旗が用いられている。勇猛なことで知られるイングランド王、リチャード1世は獅子心王とよばれていた。 紋章のライオンについては、ライオン (紋章学)も参照のこと。
ロマンス諸語で類似した単語がみられるライオン(lion)という名は、ラテン語のleoや古代ギリシャ語のλέων(leon)に由来している[14][15] 。またヘブライ語の לֶוִי (lavi)にもつながりがあると考えられる[15]。ライオンは、リンネが、18世紀に著作自然の体系の中で記載された多くの種の一つであり、リンネはこの種にはFelis leoという学名を与えた[16]。
ライオンはネコ科で最も肩口までが高く、体重もトラに次いで2番目に重い。力強い脚部と強力な顎をもち、およそ8センチメートルの犬歯をそなえたライオンは、大型の獲物でも引き倒し、狩ることができる[17]。頭骨はトラのそれと非常に似通っているが、前頭部がたいてい凹んで平たくなっている。眼窩後部もやや短い。また鼻骨がより広く開いている。しかし頭骨でトラやライオンに区分できるといっても個体差が大きいために、たいていは下顎の構造だけが種をあらわす指標として信頼にたるものとみなされる[18]。ライオンの体色は淡いバフ色から黄色がかっているもの、赤みがさしているもの、暗い黄土色まで様々である。腹部はふつうそれより明るい色をしていて、尾房は黒い。子ライオンの身体には、ヒョウよりもはっきりした、ロゼットと呼ばれる褐色の染みがある。ロゼットはライオンが成長するにつれ褪せていくのだが、たいてい脚部や腹部にはかすかに残るもので、その傾向はメスに特徴的である。
ライオンはネコの仲間で唯一、はっきりとした性的二形性をみせる動物であり、オスとメスで外見がまったく異なっている。性によって群れのなかでこなす役割も異なり、専業的である。たとえば狩りをおこなうのは、厚く邪魔になりがちなたてがみがないメスである。獲物をつけ狙い、必死で追いかけるためには身を隠さねばならず、それにオスは向いていないのである。オスのたてがみは金色から黒まで差があるが、たいてい老いたライオンほど暗い色になっている。
成体のライオンは体重がおよそ150-250kgに達し(メスで120-182 kg)[1]、ノウェルとジャクソンの報告によれば平均して181kgになる(メスで126kg)[10]。ケニア山のそばで銃殺されたオスライオンには体重272kgというものがいた。ライオンはその大きさが環境や生まれ育った地域によって異なる傾向にあり、それが結果として記録される体重に開きを生んでいる。たとえば、南アフリカではいっぱんに東アフリカよりも5%ほど体重が重くなるとされる[19]。
オスは頭部から胴体までで170-250cmで、肩口までの高さはおよそ123cm(メスは体長140-175 cm、高さ107cm)である。尾の長さは90-105cmに及び、メスであれば尾は70-100cmほどである[1]。最も大きいライオンの例として、1973年10月に南アンゴラのムッソで射殺された黒いたてがみをもつオスが知られている。世界一重いライオンとして知られているのは、南アフリカの東トランスバール、ヘクトルスプルイット郊外で撃たれた、黒いたてがみの人食いライオンである。体重は313kgあった[20]。飼育されているライオンは野生のものより大きくなる傾向にあり、1970年の記録でイギリスのコルチェスター動物園で飼われていたオスライオン「シンバ」の375kgというものがある[21]。
オスとメスに共通する非常に特徴的な要素として、尾の先にふさふさとした毛がはえていることが挙げられる。5mmほどの硬い棘や突起をふさにしまっているライオンもいる。ライオンはネコ科で唯一のふさのある尻尾をもった動物なのだが、その役割はわかっていない。生後5か月と半月ほどでふさが生えはじめ、7か月もするとはっきりそれとわかるようになる[22]。
成体のオスライオンのもつたてがみは、ネコ科のなかでも独特のもので、最も明示的な種の特徴の一つである。たてがみはライオンをより大きくみせ、威嚇的に振舞うためには完璧といってもよいほどの役割を果たす。それは他のライオンやアフリカでの主な競争者であるブチハイエナたちと対峙する場合も同じである[23] 。たてがみの有無、色、毛の量は遺伝的な条件や、雄としての成熟度、雄ホルモン(テストステロン)の量、現地の気候などに関わっている。大まかにいってより黒くたっぷりとしたたてがみを持ったライオンほど健康である。交尾の相手としても、より濃く、黒い色をしたたてがみをもっているライオンほどメスに好まれる[24]。 タンザニアでの調査もたてがみの長さがオス同士の戦いでの強さを裏づけている。一年を通じて非常に暑い時期が続くにも関わらず、より暗色のたてがみをもつ個体ほど多産であり、子孫も繁栄しやすい[25]。2、3頭のオスの連合体となるプライドでは、よりたっぷりしたたてがみを持つオスのほうが積極的に交尾をせがまれるということがしばしばである[24]。
かつて生物学者たちは、たてがみの量を分析すれば形態学的に種の下位区分を確立できると考えており、バーバリーライオンやケープライオンのような下位区分を同定するために用いられていた。しかし後の研究結果が示したのは、ライオンのたてがみの色や量は、外界温度のような環境的要因によって影響を受けているということだった[25]。たとえばヨーロッパや北アメリカなど外界温度が低いところで飼育されているライオンはよりふさふさとしたたてがみをもつ。つまりたてがみは下位区分を明らかにするためのマーカーとしては相応しくないということである[26][27]。だが一方で、アジアに生息している種類は、平均するとアフリカのライオンよりもたてがみが薄いという特徴もある[28]。
セネガルやケニアの東ツアボ国立公園ではたてがみのないオスライオンも報告されている。ティンババティ保護区のホワイトライオンの雄にも本来はたてがみがなかった。テストステロンがたてがみの成長と結びついているため、生殖腺を除去してテストステロンの生産を抑えられ、去勢されたライオンは、しばしばたてがみが非常に薄かったり、生えなかったりする[29]。たてがみのない個体は近親交配をしたライオンにもみられることがある。そのような個体は繁殖力も貧弱なものになる[30]。
多くのメスライオンが首毛(ruff)をもっており、ある姿勢をとるとそれがはっきりわかる。その姿は特に古代の彫刻や絵画などにしばしば現れるが、時にそれは雄のたてがみと間違われていた。雌の首毛はたてがみとは異なるもので、耳の下から顎のラインにかけて生えているが、かみというほどの量はなく、雄のたてがみが耳をおおうように伸びてしばしば輪郭をかくしてしまう一方で、雌のそれは気づかれないことも多い。
洞窟画に描かれた、すでに絶滅したヨーロッパホラアナライオンにはたてがみがないか、わずかしかない姿をしているものばかりである。これは、彼らがたてがみのないライオンであったことを示唆している[31] 。
ホワイトライオンの風変わりなクリーム色の毛皮はその劣性遺伝のゆえであり[32]、Panthera leo krugeriに区分されるなかでも珍しい外貌をしている。 ホワイトライオンはきちんとした下位区分ではないが、白変種という遺伝形質をもつ特殊な形態をしていて、それがホワイトタイガーにも通じる薄い色合いを生んでいる。これはブラック・パンサーの黒化(melanism)とも似通った現象である。ホワイトライオンはアルビノなのではなく、眼や肌には通常の色素形成がなされている。ホワイトトランスヴァールライオンは南アフリカの東にあるクルーガー国立公園やティンババティ保護区の近隣でときに姿をみせることがある。とはいえ、もっともよく見られるのは彼らをあえて選んで飼育しているところである。南アフリカでは、キャンド・ハント(canned hunt:柵、囲いなどで行動を制限した動物を狩猟すること)の的にするためにホワイトライオンを飼育していたことが報告されている[33]。
ホワイトライオンが実在するということが確認されたのはようやく20世紀後半になってからのことだった。長年のあいだ、ホワイトライオンは南アフリカにまことしやかに伝わる架空の生物だと考えられており、それによれば彼らの白い毛衣はあらゆる被造物の美を象徴しているとされていた。初めて目撃されたのは1900年代初めで、その後ほとんど半世紀にわたって続けざまに報告が寄せられた。1975年にはティンババティ保護区でホワイトライオンの子供の出産が確認された[34]。
ライオンは一日のほとんどを寝そべり、およそ20時間ほどを怠惰にすごす[35]。日中にも行動することはあるが、たいてい最も活動的になるのは夕暮れより後であり、それから社会的な行動や身づくろい、排泄などを行う。狩りが最もよく行われるのは日が昇る前の夜間であり、断続的に活発な行動をおこす。平均して2時間ほど動き回り、50分を食事に費やす[36]。
ライオンは肉食動物であり、まったく系統の異なる二つの社会を形成する。プライドと呼ばれる定住性のものがその一方だ[37]。群れはたいてい5頭から6頭の雌と、彼女たちと交尾する1頭か2頭の雄からなっている(1頭より多い場合は連合として扱われる)。その子供は雄でも雌でも群れに含まれる。しかし30頭以上からなる非常に大きなプライドも観察されたことがある。連合における成体のオスの数はたいてい2頭であるが、4頭前後まで増えることもある。雄の子ライオンは成熟すると、自分の群れから追い出されてしまう。
もう一方は遊牧的なものということができ、1頭あるいは対になって広大な土地を放浪するというものだ[37]。ペアが生まれ育った群れから追い出されたオス同士で組まれることは非常に多い。このようにライオンはその生活様式を切り替えるのだといえる。遊牧的なスタイルが定住型にもなりうるし、その逆もある。雄はこの両方の生活を経験せねばならず、そのまま他の群れにくわわることができないままのライオンもいる。また遊牧的な生活を送る雌が新たな群れにくわわるのは雄よりも遥かに難しい。群れのなかの雌たちは結びつきが強く、馴染みのない雌が家族ともいうべき集団にくわわろうとすることを拒むのである。
プライドの行動範囲をプライドエリアと呼び、遊牧的なスタイルをとっている場合、それはレンジと呼ばれる[37] 。プライドにいる雄たちはエリアの外周に身をおき、その縄張りを警戒してまわる傾向にある。なぜあらゆるネコ科のなかで最も高い社会性がライオンに育まれたのだろうかというテーマについては幾つもの議論がなされてきた。狩りの成功率を高めるためというのがもっともらしく思えるが、実験などで裏づけられたわけではなくはっきりしない。狩りを協同で行うことは捕食の機会を増やすことであるが、一方で群れが大きくなり狩りを行わないライオンが増えることで、1頭あたりのカロリー摂取量は減ることになる。またそこで育つ子ライオンが群れを去るのはずっと先のことである。群れのメンバーは狩りのなかで常に同じ役割をこなす。狩りをおこなうものの健康は群れの存続に直接関わるため、彼らは狩りをおこなった場所で一番先に獲物にありつくことができる。血縁淘汰(同族のライオンはそうでないものより食料にあずかりやすい)を含めた同様の恩恵は、幼い仲間を守ることや縄張りの維持、飢えや怪我への保険(individual insurance)にも及ぶ[10]。
群れのために狩りのほとんどをおこなうのは雄よりも小さく、身軽で俊敏な雌である。雄は重くて目立ちやすいたてがみが狩りのさまたげとなるし、また最中に興奮しやすいということもある。獲物に忍び寄り、捕食を成功させるため、彼女たちはグループをつくり協力し合って行動する。しかし狩りの現場に雄がいた場合、彼らはすでに雌たちが狩った獲物を独り占めしてしまう傾向にある。獲物をわけあうとすれば雌ライオンよりも子供とであることが多く、雄同士で獲物をわけあうことは滅多にない。比較的小さな獲物の場合はその場で食事がおこなわれ、ハンターたちがそれぞれ分け前にあずかる。獲物が大きかった場合はたいていプライドエリアまで引きずられていき、群れで共有されるのだが[38]、メンバーたちはできるだけ多くの食事をえようと互いに積極的になる。
敵から群れを守るのは雄の仕事でも雌の仕事でもあるが、必ず特定のライオンが先頭にたち、他のメンバーはその背後につく[39]。ライオンたちは群れのなかで特定の役割を担っている傾向にあり、後者のライオンでも集団にとっては得がたい貢献をしているものだ[40] h。また、侵入者を撃退するリーダーになることには見返りのようなものがあり、群れのなかでの雌ライオンの地位にもそういった役割が反映しているのではないかという仮説がある[41]。プライドと行動する雄ライオンは、群れにおける自分の地位を転覆させようとする外部の雄と戦わねばならない。また群れという安定した社会的単位にある雌は、外部の雌を許容することはなく[42]、その構成が変化するのは、雌ライオンが生まれるときと死んだときだけである[43]。一方で成熟に近づいた雄は、2、3歳で大人とみなされ群れを去らなければならない。なかには群れを去り放浪にでる雌もいる[43]。
ライオンは力強い動物であり、たいてい集団で協力し合って狩りをし、狙った獲物を追いかける。しかしそのスタミナについてはあまり知られていない。たとえば雌ライオンの心臓は体重の0.57%を占めているに過ぎず、雄であれば0.45%にまで落ちる(一方でハイエナはほぼ1%台である)[43]。したがって雌ライオンが走るスピードは81km/hにまで達するのだが[44]、ピークはごく僅かしか維持できないため[45] 、獲物に攻撃を仕掛ける前にじゅうぶんに近づく必要がありおよそ30m以内まで詰め寄るといわれている。彼女達は目立ちにくくなるよう、カモフラージュできる場所を選んだり夜の間に狩りをおこなう[46]。何匹かの雌ライオンが集い、目当ての群れを数箇所から囲い込むのが典型的な狩りのスタイルである。群れにじゅうぶん近づいたなら、ふつう最も近い獲物をターゲットにする。その仕事は素早く、そして力強い。一気に襲いかかり、最後の一跳びで獲物を捕まえようとするのだ。そして獲物はたいてい絞め落とされて脳虚血症を起すか窒息死するか[47]、口と鼻を顎で塞がれたりして殺される(こちらも窒息死である)。また小型の獲物の場合はそれこそ前足の一撃で絶命する.[1]。
獲物は主に大型の哺乳類であり、とくにアフリカではウィルドビースト、インパラ、シマウマ、バッファロー、イボイノシシなどが多い。インドではそれがニルガイやイノシシ、シカになる。機会さえあれば狩りの対象はさらに広がり、クーズーやハーテビースト、ゲムズボック、エランドといった50kgから300kgの有蹄動物も獲物となる[1]。また時としてトムソンガゼルやスプリングボックのような比較的小さな動物も襲うことがある。ライオンは集団で狩りをするため、子供に限らずほとんどの動物を獲物とすることができるが、十分に成長しきったキリンなど非常に大型の動物になると怪我を負う危険もあるため襲うことは稀である。
いくつもの研究によって集められた様々な統計から、ライオンはたいてい190kgから550kgの哺乳類を常食していることがわかる。アフリカではウィルドビーストが最もよく獲物となっており、セレンゲチではおよそ全体の半分にもなっている(シマウマがそれに次ぐ)[48]。成熟したカバやサイ、ゾウ、そして小型のガゼルやインパラその他すばしこいレイヨウなどは一般に狩りの対象とはならない。しかしキリンやバッファローなどは地域によってはしばしば獲物となることがある。たとえば、クルーガー国立公園ではキリンが日常的に狩られているし[49]、マニャラ公園ではケイプ・バッファローがそこのライオンたちの全体の食事量の62%にもなっている[50]。これはバッファローの数が非常に多いことも原因である。カバが襲われることはあるが、成体のサイはライオンのほうから避けるのが一般的である。190kg以下であっても、ライオンの目にとまったイボイノシシはしばしば狩りの対象となる[51]。地域によっては変わった動物を狩ることに特化している場合もあり、サヴティ川流域ではゾウさえも獲物となってしまう[52]。ガイドの報告によれば、ひどく腹をすかせたライオンは子供のゾウを獲物とし、ときには視界が悪くなる夜間に大人のゾウでさえも狩ってしまうことがあるという[53]。ライオンは家畜も襲うため、インドではしばしば牛が彼らの食事に捧げられてしまう[28]。さらにヒョウやチーター、ハイエナ、リカオンなど他の肉食動物でも狩ることができるが、食糧とすることはほとんどない。またライオンは屍肉も漁る。それは病気などで自然死したものでも、他の肉食動物が仕留めたものでも変わるところはなく、輪をつくっている猛禽類につねに目をやり、ワシタカなどが死体や弱った動物を囲んでいないか注意深く観察するのである[54]。一般にライオンは大食いであり、一度に30kgの肉を平らげる[55]。獲物を食べきれないときには数時間休んで再び口をつける。成体の雌ライオンで1日におよそ5kg、雄で7kgの肉を必要とする[56] 。
ライオンは獲物に見つかりやすい開けた場所で狩りをするため、集団行動をすることでその成功率を上げようとする。特に大型の動物を狙う場合はなおさらである。また獲物を仕留めたあとに、ハイエナなど他の肉食動物に手柄を横取りされないためにもチームワークは必要となる。遮蔽物のないサバンナでは何km先からもワシタカが集まっているのが容易に見てとれるからである。雌ライオンが狩りのほとんどをこなし、キリンやバッファローなど大型の動物を狙うのでもなければプライドの雄はたいていその仕事に加わらない。個々の雌ライオンがそれぞれの位置について獲物を「鶴翼」で囲んで攻撃をしかけたり、集団で密集して移動し他のライオンと争って獲物を襲うというのが典型的である[57] 。
若いライオンがはじめて狩りに加わるのは生後3ヶ月ほどである。ただし獲物を追うだけで、実際に襲うのは1歳になってからだ。2歳ともなれば立派な狩人となる[58]。
ふつうライオンは4歳ごろに受胎が可能となる[59]。交尾の時期は決まっておらず、発情期のようなものはない[60]。他のネコ科の動物のように、雄ライオンはペニスに傘状の「とっき」を持っている。この「とっき」が雌の性器を刺激し、排卵を促すのである[61]。雌が一頭の雄とだけ交尾するということはまずなく、交尾期には複数の雄と接触するのがふつうである[62]。交尾は数日かけて行われることもあり、番のライオンはたいてい食事をとらず1日におよそ20回から40回の接合をおこなう。また飼育されているライオンは受胎しやすい傾向にある。
受胎から出産までは平均しておよそ110日ほどであり[60]、雌はプライドの場所からやや離れた、他の動物の目につかない巣穴で1頭から4頭の子ライオンを産む。出産直後の子ライオンは体重が1.2kgから2.1kgほどでおよそ1週間は目が見えない状態であり、ほとんど無力である。這いずりまわるのは生後1、2日で、3週間ほどで歩き回ることができるようになる[63]。幼いうちはこの巣穴に比較的近い場所で狩りを行い[64]、移動のさいも他の動物に教われないように雌ライオンが子供たちの首筋をくわえて何度もねぐらをかえる[64]。
母となった雌ライオンは、ふつう子供が生後6-8週間になるまでプライドに戻らない[65]。例外的にこの期間が短縮されるのは、他の雌ライオンと出産時期が重なった場合である。たとえば、プライドにいる雌たちはしばしば同時に受胎するため、幼いライオンに乳をやり育てることは共同で行われる(子供がひとり立ちする準備段階に入るまでのことである)。この場合、母親が誰かということは問題にされず、子ライオンはプライドにいる全ての雌から同じような扱いをうける。出産が重なることは、彼らが生き残らせ、大きく育てるためには大事なことである。たとえばある雌ライオンが他の雌の出産後1、2ヶ月して子供を産んだ場合、どうしても幼いほうが食事から締め出され、飢え死にがちである。
そのほか子ライオンはいくつもの危機を乗り越えなければならない。ジャッカルやハイエナ、ハゲタカ、蛇に襲われることもあるのだ。バッファローでさえ子供のライオンの匂いを嗅ぎつけたなら、親たちの守ろうとした巣穴に殺到し、踏み殺そうとする。さらにプライドに新たにくわわった雄がそれまでのリーダーを追い出すと、この「侵略者」がそこにいる子ライオンを噛み殺すということもしばしばである[66]。これはおそらく雌ライオンは子供が成長するか死ぬまでは発情しないからである。統計的には、2歳まで生きる子供のライオンは20%に満たない[67]。
はじめてプライドへと連れていかれた子供は母親以外のおとなの前ではじめから堂々と振舞うわけではない。しかしすぐにプライドでの暮らしに夢中になり、子供同士だけでなくおとなのライオンとも遊ぼうとする。母となったライオンは子供のいない雌よりも我慢づよくなる傾向が強いが、雄の場合は時と場合による。じっと子供のライオンがその尻尾やたてがみで戯れるのに任せるときもあれば、唸り声をあげて追い払うときもある[68]。
離乳は生後6、7ヶ月からである。雄であれば3年ほどで成熟し、4、5歳になると他のプライドの雄たちと決闘して、縄張りを争うようになる[69] 。10から15年で力が衰えるほどの高齢になるが、それはプライドをまもるために致命傷を負ったことのないライオンだということを意味している(またライバルの雄から群れを追い出されたものが再び天下をとることはごく稀である)。子孫を増やし育てることのはごく短い期間であるということだ。プライドを支配してすぐに子供を設けることができたほうが、追い出される前に成長させることができる。我が子を締め出そうとする雄ライオンに雌はしばしば反発するが、そのような異議申し立てが成功することはまれである。たいてい雄は2歳に満たない子供を端から殺していく。母親は雄よりも体重が軽く、力も弱いのである。1頭の雄に対して3、4頭の雌が結束した場合には、子供を守れることもある[66]。
プライドから追放され、放浪者となるのは雄ばかりではない。たしかに雌ライオンのほとんどが生まれ育ったプライドに留まり続けるが、プライドが大きくなりすぎると下の世代の若い雌ライオンが縄張りを追われ、群れから放り出される。さらに新たな雄がプライドを支配するようになると、成熟の手前にいるライオンは雄でも雌でも追い出されないという保証はない[70]。雌が遊牧者として生きることは簡単ではなく、仲間のたすけのない放浪する雌のライオンが子供をおとなにまで育てた例はほとんどない。またある統計によればライオンは、雄でも雌でも同性間でホモセクシュアリティー的な交流をもつ[71][72]。
自然界にはライオンの天敵は存在せず、多くは他のライオンか人間との争いによって死ぬことになる[73]。これはプライドの守護者である雄には特に当てはまるデータで、彼らは非常にしばしば敵対するほかの雄と積極的にわたりあっていかなければならないのだ。野生のライオンと飼育されたライオンの平均寿命が劇的に異なる原因がこれだ。しかし雄でも雌でも、たとえば二つのプライドで一箇所の縄張りを争っている場合には、ひどい傷を負ったり殺されることがある。
狩り以外にもライオンたちはいくつもの社会的な行動をみせる。この動物が何かを表現する動きは非常に発達しているのである。もっともよく見られる友愛的な身振りが、頭をすりつけ舌で舐めつけることだ[74]。これは霊長類の毛づくろいにあたる[75]。他のライオンに頭をこすりつけ、額や首に鼻をよせることは、歓待がかたちをとったもので、ライオンが仲間としばらく離れていたり、敵と戦ったあとにしばしば見られるものだ[76]。雄はほかの雄に、子供や雌は雌に行う[77]。2頭が互いに舌で舐めあうということもよくある。むしろ相互におこない、された側が喜びを露にするのが一般的である。頭と首がその対象となることがふつうだが、これは身体の構造上の問題である。ライオンは自分でそこを舌を這わせることはできないのだ[78]。
ライオンたちは外見的にそれとわかる表情や身振りなども豊富であり、発声法も何種類となく存在する[79]。強弱とピッチなどが使い分けられ、単なる個々の合図というのではなく、コミュニケーションの主要な道具となっている。ライオンが出す音には、唸り声や叫び声、咳払いのようなものから、グルグルと喉を鳴らしたり、ネコや犬のような鳴き声まである。ライオンが叫び声をだすときは、非常な特徴がある。まずとても低い声からはじめゆっくりとほえて、さいごに何度か短く唸る。たいていそれは夜であり、8km先からも聞こえるほどである。大型のネコでは最も大きな声を出すことで、自分の存在を誇示しているのだ[80]。
ライオンとブチハイエナが共存しているところでは、この2種が同じ生態学的なニッチを占め、したがって対立しあうことになる。ときには全体の食糧の68.8%が重なってしまうことがある[出典無効][81] 。ハイエナが襲ってきたり食糧を奪いにきたりしない限りライオンは彼らを相手にしないが、ブチハイエナは食糧があるかないかでライオンに対する反応がまったく異なる。ライオンは容易にブチハイエナを殺すことができるからである。ンゴロンゴロ保全地域ではライオンたちがハイエナの倒した獲物を奪うことで食事の大部分をまかなっているということは常識的になっていて、それがハイエナの高い死亡率につながっている。ライオンがハイエナたちのだす捕食のサインをすばやく察知し、かけつけるという事実は、ハンス・クルーク博士によって証明されたものだ。ハイエナたちが食事をするときの呼び声をテープから再生すると、かならずライオンが目の前に現れるという発見をしたのが彼だった[82]。ライオンがやってきて命の危険に晒されたブチハイエナは、すぐその場から立ち去るか、30mから100mほど離れ、ライオンの食事が終わるまで辛抱強く待ち続ける[83]。一方で場合によってはライオンの横で食事を続けたり、逆にライオンに襲い掛かったりする大胆さをみせることもある。また食糧とは関係ないところでもこの2種は対立することがあり、はっきりとした理由がみえないような状況でライオンがハイエナに飛びかかり、傷を負わせたりする。1頭の雄ライオンが別々の場所でリーダー格の雌ハイエナ2頭をかみ殺した姿が記録されていて、この雄ライオンはハイエナを食事にしたわけではない[84]。エトーシャ国立公園のハイエナの71%がライオンに襲われて死んでいる。ブチハイエナはライオンが繰り返し自分たちの縄張りに侵入してくるプレッシャーに耐えているのだ[85]。飼育されたブチハイエナである実験をすると、ライオンにまったく接した経験のない個体はその姿を目にしても無関心であるが、匂いをかぐと怯えだすということが明らかになった[82]。
より小型のチーターやヒョウといったネコ科の動物と共存している地域でも、ライオンは支配的な影響力をもつ傾向にあり、その獲物を奪ったり、子供たちやときには大人でさえかみ殺してしまう。チーターがその獲物をライオンや他の捕食者に奪われる確率は50%にもなる[86]。ライオンはチーターの子供にとって最大の恐怖であり、襲われて生後1週間で命を落とす子供は実に90%に達する。チーターは時間をこまかくずらして狩りをおこない競合をさけ、子供たちは深い茂みに隠しておく。ヒョウも同じような戦略をつかっているが、ライオンやチーターよりも小型の動物を獲物としている分だけ有利になっている。またチーターと違ってヒョウは木に登ることができ、そこに子供たちをおくことでライオンから身を守っている。しかし、雌ライオンはときどきヒョウの獲物をうばうために木に登ることがある[87]。リカオンにもライオンは優位にたち、獲物を奪いとるだけでなくリカオンの子供や大人を狩ることもある(後者はそれほど多いものではないが).[88]。
ライオンと共存する生物のなかでは、人間をのぞけばナイルワニが唯一彼らを脅かすことができる存在であるが、水中限定の話である。陸のワニは頻繁にライオンの餌食になる[89]。ただしナイルワニの胃の中からライオンの爪が見つかることもある[90]。
アフリカでは、影のできるアカシアの木がまばらに生えているサバンナの草原地帯にライオンたちをみることができる。[92] インドでの生息地は乾燥したサバンナかさらに乾いた落葉樹林のなかである。[93]。最近では[いつ?]、ライオンが住まっているのはギリシャからインドまでの南ユーラシアと、アフリカの大部分になっている(ただし熱帯雨林のある中央部とサハラ砂漠をのぞく)。ヘロドトスの記すところによれば、ライオンは紀元前480年ごろにはギリシャでよく知られる動物となった。ペルシャの王クセルクセス1世が国中を練り歩いているなか、そのラクダの積荷をライオンが襲ったことが記されている。アリストテレスは紀元前300年にはもう彼らが貴重な動物だと考えていて、その後400年ほどして彼の地でのライオンは絶滅している[94] アジア産のライオンは10世紀ごろまではヨーロッパの辺境であるコーサカス地方にもいたと考えられている[95]。
パレスチナに由来する種も中世には姿を消した。アジアのほとんどの地域でも、猟銃が簡単に手に入る18世紀ごろになるとライオンの姿は見られなくなった。19世紀の終わりから20世紀はじめにかけて、北アフリカおよび東南アジアでも絶滅している。トルコおよびインド北部のほぼ全域も同様である[96] 。アジアで最後にライオンが確認されたのは1941年のイランであるが、3年後にはカルン川の岸辺で死骸となって発見された。その後イランでは信頼できるレポートは送られていない[55]。最後に生き残ったアジアのライオンはインド北部のギルの森周辺でみることができる[97]。そこはグジャラート州に属する、ほとんどが森に覆われた1412平方キロメートルの土地であり、300頭ほどのライオンたちの聖地となっていて、その数はゆっくりと増しているという報告もある[98]。
アフリカのほぼ全土、西ヨーロッパからインドの多くの地域、北アメリカのベーリング地峡自然保護区など生息地は幅広い。しかし今日では一部の地域で種そのものが絶滅している。
いまほとんどのライオンは東アフリカと南アフリカに生息しているが、その数は急速に減少しており、この20年間で30-50%まで数を減らしている[3]。現在(2002-2004年)アフリカにいる野生のライオンは16500頭から47000頭と推測されているが、1990年代はじめになされた調査では1950年には10万頭からおよそ40万頭までいたとされていた[100][101]。原因ははっきりしていないが、この数字が回復することはおそらくない[3]。生息地の減少と人間との衝突が種を脅かす最大の原因と考えられる[102][103]。ライオンたちがいま生き残っている地域はそれぞれが孤立した状態にあり、近親繁殖が進んでしまうため、遺伝的な多様性が失われている。したがってライオンは国際自然保護連合(IUCN)によれば危急種であるが、アジア産は絶滅寸前とされている[要出典]。西アフリカにおけるライオンの数は中央アフリカのそれと非常に差があり、交配する個体の交替がまったくといっていいほどなされない。この地域における成体のライオンの頭数調査が近年2度行われ850頭から1160頭と推計されている(2002年と2004年)。これは最も大きな数字であって、ブルキナファソのArly-Singou エコシステムのもとでは100頭から400頭という推計とは食い違いがある[3]。
アフリカとアジアでライオンを保護するためには国立公園や禁猟区を立ち上げて維持することが求められる。ザンビアのエトーシャ 国立公園、タンザニアのセレンゲチ国立公園、南アフリカのクルーガー国立公園などが有名だ。このエリアの外では人間や家畜とライオンが接触するために問題が起こってしまうため、たいていライオンのほうが排除される[104]。西インドはギル国立公園がアジアのライオンにとって最後の隠れ家になっている。そこは1412平方キロメートルの広さをもち、2006年4月の時点でおよそ359頭の生息が確認されている。アフリカと同様にこの公園に非常に近いところに大勢の人間が暮らしているため、ライオンと家畜や地元民、保護団体のあいだで問題が生じている[105]。アジア産のライオンを復活させるプロジェクトが計画され、インドのマディヤ・プラデシュ州にある野生動物保護区に複数頭がまとめられた[106]。アジア種のライオンが生き残るためには遺伝子プールとを確保し、遺伝的多様性をひろげ維持することが重要なのである。
かつて動物園のバーバリライオンは非常に人気があったが、それは彼らが個々に飼育されることでバーバリライオンの郡体が減っていくという結果につながった。イギリス、ケント州のポート・リム野生動物公園にいた12頭はモロッコ王が所有していたペットの子孫であった[107]。ほかにもバーバリーライオンと考えられる11頭がアディスアベバの動物園で発見されている。こちらは皇帝ハイレ・セラシエが飼っていたライオンの子孫である。ワイルドリンク・インターナショナルはオックスフォード大学と共同で、国際的なバーバリーライオン・プロジェクトを立ち上げている。これは世界中のバーバリーライオンを同定し、繁殖することで定期的にモロッコのアトラス山脈にある国立公園に再導入していくというものである[27]。
アフリカでライオンの頭数が減っているという事実が明らかになると、それを食い止めるために幾つもの保護プログラムが組まれるようになった。ライオンはSSP(Species Survival Plan )に含まれる動物であり、動物園と水族館が団結して生存の可能性を高める努力が行っている。この計画はもともとアジア産のライオンを対象に1982年に始まったものだが、北アメリカにいるアジア産のライオンのほとんどがアフリカ産のものとかけあわされ、遺伝的に純粋ではないことが判明したために棚上げされていた。アフリカのライオンを対象にした計画は1993年に持ち上がる。これはとりわけ南アフリカの種に重点をおいたものであったが、飼育されているライオンの遺伝的多様性を判断するという難題が課せられていた。ほとんどの個体はその血統がはっきりしていなかったのである[96]。
ライオンはふつう人を襲うことはないが、例がないわけではない。非常に有名になったものにツアボの人食いライオンたちがいる。これは1898年にケニアのツアボ川に架橋する工事の最中に起こった悲劇で、ケニア-ウガンダ間に鉄道を敷くための9ヶ月に合計で28人の工夫が犠牲になったものである。1991年にはザンビアでも事件が起き、ムフエのルアングワ渓谷で6人がかみ殺されている[108]。この人食いライオンたちを撃ち殺したハンターは、ライオンたちが捕食行動をおこなっていたと詳細に記している。ツアボとムフエの事件には類似点がみられ、どちらのライオンも平均よりも巨大な体躯をもち、たてがみがなかった。そして虫歯に苦しんでいるらしきところも共通していたが、この虫歯も含めた疾患によるストレスという説を支持する研究者は皆無である。博物館のコレクションにくわえられた人食いライオンたちの顎と歯の分析が示しているのは、虫歯はいくつかの付随的な条件を示すことはあるかもしれないが、ライオンたちが人を襲ったのは人間の多い地域で食糧が不足したためだという可能性が最も高いということである[109]。ツアボの事件を中心に人食いライオン一般を研究した学者は、病気になったり傷を負ったライオンが人を襲う傾向にあることは認めたが、そういった行動はけして異常ではなく、機会さえあればむしろ当然のものだとしている。家畜や人間に遭遇するなどの要因さえあれば、ライオンはいつでも人間を獲物にしうるということである。著者たちはこういった人間との関係は古生物学の記録によればヒョウや他の霊長類にも十分に確認できると記している[110]。ライオンがどのように人を襲うのかという傾向については体系だてられた調査が存在する。アメリカとタンザニアの科学者は、タンザニアの地方でライオンの被害が増加していると報告している。それによれば1990年から2005年にかけて数が増しており、すくなくとも563の村が襲われ、1世紀も前に有名になったツアボの事件の被害者数をはるかに越えるスピードで人間が殺されている。たとえばルフィジ県のセルー国立公園周辺やモザンビーク国境沿いのリンジ地方などで事件が多発している。人口が増えてより辺境に暮らす人が多くなったことも原因の一つだが、著者たちが主張しているのはライオンの保護プログラムが危険を放置したままにしているということである。これらのケースではプログラムがそのまま被害につながっているからである。リンジでのケースは、村からでた人間がライオンに襲われた例として記録されている[111]。
「エデンの人食いライオン」の著者ロバート・R・フランプは、南アフリカのクルーガー国立公園を夜中に横切るモザンビークの難民が定期的にライオンに遭遇し、殺されていると指摘し、公園側もそれが問題となっていることを認めている。公園がアパルトヘイトの対象となり、難民が夜中にそこを通らなければならなくなって以降、10年間で数千もの人々が犠牲になっているとフランプはいう。国境が封鎖されるまでの100年近く、モザンビークの人間は日中を比較的安全に歩いて通ることができたのだ[112]。
パッカーの試算によると、毎年200人以上のタンザニア人がライオンをふくめ、ワニ、ゾウ、カバ、蛇に殺されている。実際の数字はこの倍に達することもありえ、少なくともそのうち70がライオンによるものである。彼は1990年から2004年までの記録をつくり、タンザニアでのライオンが815人を襲い、そのうち563人を食い殺しているとしている。パッカーとイカンダは欧米流の保護プログラムがこういった側面にも責任を持たねばならないとする数少ない論者でもある。ライオンの保護と人命への倫理的な配慮を両立させなければ、長期的な成功はなしえないからである[111]。
2004年にはタンザニアの南で人食いライオンが射殺されている。ルフィジ県の鉱山地帯にある村々で事件を起したこのライオンは、少なくとも35人を襲い、食い殺したとされている[113][リンク切れ][114]。GTZのコーディネーターであるロルフ・D・バルダス博士は、臼歯のしたにおおきな膿瘍があったことが人を襲った原因である可能性が高いと語った。このライオンの臼歯にはいくつかの亀裂さえあり、「特にものを噛む時にはおそらくひどい痛みを感じていた」[115]。GTZとはドイツの開発協力機構で、この20年間タンザニア政府と協同で野生動物の保護にとりくんでいる。彼によれば、他のライオンと同様にこの個体も巨大な体躯をもち、たてがみが無く、そして歯に問題を抱えていた。
「All-Africa」の記録は、ツアボの事件ではなく、あまり知られていない1930年代の終わりから40年代にかけてのタンガニーカ(いまのタンザニア)での人食いライオンの事例を集めたものである。それによれば保護区の巡視員でありプロのハンターであるジョージ・ラシュビーが駆除したプライドには、いまでいうンジョレ地区で3世代にわたって1500から2000もの人々を食い殺してきたとされているものがあった[116]。
ライオンは異国趣味をくすぐる動物であり、18世紀後半には動物園の目玉になっていた。彼らのような大型のネコ科とともに、ゾウやサイ、カバなどの脊椎動物や霊長類なども人気を博していた。かつて動物園はこういった珍しい動物を可能なかぎり集めていたのである[117]。現代の動物園の多くはもっと的を絞っているのがふつうだが[118]、それでも世界中の動物園や国立公園には1000を越えるアフリカのライオンと100を越えるアジア産のライオンがいる。彼らは大使のような扱いをうけ、教育や観光、環境保護のために駐在していると考えられている[出典無効][119] 。飼育下にあるライオンは20歳になることもあり、ハワイのホノルル動物園にいた「アポロ」は22歳まで生きて2007年8月に死んだ。1986年に産まれた彼の姉妹2頭は、2007年8月現在も存命である[120]。繁殖プログラムは異なる下位区分の種を繁殖しないよう、血統を明らかにする必要がある。そうしなければ保護する価値がわからなくなってしまう[121]。
ライオンは紀元前850年ごろにはアッシリア王によって飼われていた[94]。アレクサンダー大王もまた北インドから調教されたライオンを献上されたといわれている[122]。ローマの時代がくると、皇帝たちはライオンを揃え、剣闘士と戦わせるようになる。スッラやポンペイウス、カエサルといった名高い人物たちはしばしば一度に何百頭というライオンを集め殺戮させるよう命じていた[123]。東洋ではインドの王妃がライオンを飼いならしていた。マルコ・ポーロの記すところによれば、クビライ・ハンは室内にライオンを飼っていたという[124]。ヨーロッパで始めて「動物園」が貴族や王家のあいだで流行したのは13世紀のことである。17世紀ごろまでにはハーレム(seraglios)と呼ばれ、驚異の部屋の延長として当時は見世物小屋(menageries)という名も定着していた。ルネサンス期にはフランス、イタリアからヨーロッパ全土へと広がった[125]。イギリスではこのハーレム文化があまり栄えることはなかったが、ライオンは13世紀にジョン王がロンドン塔につくったハーレムのなかで飼われていた。おそらく1125年にヘンリ1世がはじめた初期の見世物小屋が起源だと考えられる[126][127]。それはオックスフォードのそばのウッドストック近くにあり、マームズベリのウィリアムはライオンたちがそこで飼われていたと記録している[128]。
こういった施設は貴族の富と権力とを表すものであり、とりわけ巨大なライオンやゾウたちのような動物はそのまま力のシンボルとなった。これはつきつめると、人間が自然を支配しているということを誇示するためのものでもあった。ライオンのような大自然の「王」が怯える姿や、サイを前にしたゾウが尻込みする様に17世紀の好事家たちは驚き、そして喜んだのだった。見世物小屋が一般大衆に受け入れられるようになると、このような動物同士の決闘は次第にみられなくなっていった。大型の動物をペットにするという伝統は19世紀あで続くが、その頃にはかなり奇矯なふるまいとみなされるようになった。[129]。
ロンドン塔には常にライオンがいたわけではなく、たとえばヘンリー6世の妃であったマーガレット・オブ・アンジューのような趣味人が探し出したり、贈られたりしたときにライオンの姿をそこにみることができた。記録によれば、当時のイギリスでの飼育環境は貧弱なもので、フィレンツェなどとは開きがあったという[130]。18世紀ごろには見世物小屋は大衆に開かれたものとなり、3ペンス半を払うかライオンの餌となる犬猫をもってくれば入場料となった[131]。エクセターにあるもう一つの小屋も19世紀はじめまでライオンを見世物にしていた。ウィリアム4世によってロンドン塔のmenagerieは閉じられ、動物たちはロンドン動物園に移された。こちらが一般に公開されるようになったのは1828年4月27日のことであった[132]。
野生の動物が取引されるようになり、それが隆盛をきわめるのは植民地貿易が進んだ19世紀のことである。ライオンはごく一般的かつ安価な生き物だと考えられていた。虎よりは高値がついたものの、キリンやカバなどの巨大で輸送が難しい動物ほどではなく、ましてパンダとは比べものにならなかった[133]。他の動物と同様に、彼らは自然由来の単なる商品とみなされ、捕獲や輸送に関してほとんど省みられるということがなかった[134]。さらにライオンを追いかけるハンターという英雄的なイメージが人口に膾炙し、長年にわたってそれが支配的なものとなった[135]。冒険者やハンターたちはありがちなマニ教的善悪二元論を利用して、その冒険譚に彩りをくわえ、自ら英雄として振舞ったのである。こうして人食いライオンは人食いライオンなのだという考えが大型のネコ科動物にはあてはめられ、「大自然の驚異とそれを克服する悦び」という構図がつくられた[136]。
ライオンが飼育される窮屈で不潔な環境が一変したのは、1870代になってロンドン動物園におおきく住みよいケージがつくられてからである[137]。19世紀のはじめになると、カール・ハーゲンベックがより本来の生態にあうような囲い込み法を考案した。これはさらに開けた敷地をもうけて砂利をまぜた岩山をつくり、柵のかわりに掘割をそなえたものだった。このデザインは、20世紀はじめになってメルボルンやシドニーなどで取り入れられている。ハーゲンベックの設計は普及したとはいえ旧式の柵と檻も60年代まで動物園では当たり前のものであった[138]。1990年代になると、敷地はさらに広げられ、自然環境になぞらえられるとともに、鉄網や薄いガラスなどが使用され、見物客はかつてないほどライオンの側まで近寄ることができるようになった。いまではライオンたちの住環境は自然のそれと非常にちかく、彼らの欲求に従ってさらにあるがままに近づける現代的なガイドラインが採用されている。巣穴はいくつかに分散させ、ライオンたちが横たわる場所には陽射しと木陰のどちらも過不足がなくなるようにし、水はけをよくするとともに歩きまわれるスペースも確保するということに重点がおかれる[出典無効][119]。
また今でもライオンを飼う私人は存在する。ジョージ・アダムソンとその妻ジョイ・アダムソンが育てた雌ライオンのエルザなどがその例だ。特にジョイとエルザの結びつきは固く、彼らの関係が有名になってのち、その暮らしはいくつかの書籍や映画にまとめられた。
ライオン狩り(Lion-baiting)とは他の動物とライオンを戦わせる血なまぐさいスポーツのことである。たいていその相手は犬たちであり、記録によれば古代から17世紀まで行われていた。ウィーンでは1800年、イギリスでは1825年に禁止されている[139][140]。
サーカスなどの見世物にするためにライオンを調教することも昔からなされていた。現代でもジークフリード&ロイといったエンターティナーがいる。これはライオンだけでなく、トラやヒョウ、ピューマなどにも試みられていた。この分野の先駆者は19世紀始めのフランス人アンリ・マーティンと、アメリカ人のアイザック・ヴァン・アンバーグである。二人は世界中をまわり、無数の追随者を生んだ[141]。ヴァン・アンバーグは1838年にイギリスを訪れた際にヴィクトリア女王の前でもその腕を披露している。マーティンは「マイソールのライオンたち」というパントマイムを考案し、アンバーグはすぐにそのアイディアを借用した。これらの出し物はそれまでサーカスの目玉だった馬術にとってかわったが、実際にライオンのショーが大衆の関心を集めたのは20世紀はじめに映画に登場してからである。これは前世紀的なライオンとの決闘と同じようなも構図でもって動物に対する人間の優位を誇示するものであった[141]。調教師の支配力と監督力を極端なまでに証明するものが、ライオンの口にその頭を突っ込むパフォーマンスである。今日ではライオン調教師の象徴ともいえるパフォーマンスであるが、これを初めて行ったのはアメリカ人のクライド・ベイティ(1903年-1965年)だとされている[142] 。
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