内覧
令外官の役職および職務 ウィキペディアから
内覧(ないらん)とは、日本の朝廷において天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書など一切を先に見る権限。また、その許可を受けた者の地位を指す。
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概要
藤原基経が太政大臣として与えられ、後に関白の職務として定着した職権は、万政領行(すべての政を行う)・百官総己(すべての官人を統べる)・奏宣文書内覧の3つであった[1]。奏宣文書内覧は天皇に奏上される文書である「奏」と、天皇から命令される文書である「宣」のすべてを事前に見ることを指す大きな権限であり、これがいわゆる「内覧」の職権とされている。
九条兼実は「天皇が成人の際に、裁可される文書を先に見る臣」と定義しており、摂政より関白に近いものとしている[2]。常置ではなく、前任・現任を問わず中納言以上であれば、太政官の序列には従わずに任命された[3][4]。初例を除いて原則的には天皇の宣旨によって任命されたが、院政期には院宣によって命じられた後に宣旨を受けた例もある[5]。
内覧は関白の権限の一部を持ち、その補任は将来的に摂関となることを前提とするものであったが[5]、平安時代末期以降は関白と併置されることもあり[5]、安土桃山時代以降は摂関に対して別途内覧宣下が行われるようになっている[6]。内覧は関白と異なり官職化せず、天皇の私的諮詢機関的性格を持っていた[6]。
歴史
要約
視点
内覧補任は、寛平9年(897年)に宇多天皇が醍醐天皇に譲位した際の詔書で、大納言藤原時平と権大納言菅原道真が任じられたことに始まる[2]。『日本紀略』や『菅家文草』によると、この際に時平と道真に与えられた権限は、醍醐天皇が幼少の間[注釈 1]、政務を補佐し、奏宣文書内覧を行うというものであった[2]。
この後、天禄3年(972年)10月23日に摂政藤原伊尹が病で摂政を辞任し、10月27日に権中納言藤原兼通が内覧宣旨を受けたのが単独の内覧の初見である[8][注釈 2]。兼通はこの時太政官の席次では9番目であったが、この2年後の天延2年(974年)に関白に就任している[11]。また宣旨によればこれは伊尹が病で政務が執れない間という条件であったが、伊尹の没後にも継続して内覧を務めている[11]。長徳元年(995年)には関白藤原道隆が病となり、息子の内大臣藤原伊周に関白を譲る意向を示した。しかし一条天皇によって「関白が病の間」の「内覧」と定められたため、道隆が没するとその任は停止されるという、臨時的な在任にすぎなかった[12][13]。その後道隆の弟道兼が関白となったがまもなく没し、道兼の弟藤原道長が内覧に任じられた。道長はこの時権大納言であり、摂関に就任にするための資格を欠いていたための内覧宣下であったとみられる[4]。その後、道長は三条天皇からの関白就任の要請を断り、改めて内覧の宣下を受けている[4]。道長はすでに左大臣であり、関白に就任する資格は充分であったため、この内覧宣下は道長の政治的意図によるものとみられている[4][注釈 3]。
治暦3年12月5日(1068年1月12日)、関白藤原頼通の辞職が認められたが、後冷泉天皇は頼通の政治参加を強く望んでおり、「太政官の奏上一切をことごとく諮詢すべし」とする宣旨を受けた。これは前関白が内覧となることの初例である[4]。
保安元年(1120年)11月12日、関白藤原忠実は関白の職掌の一部である内覧の権限のみを停止された。翌保安2年(1121年)1月17日に内覧権限は復旧されたが、5日後に忠実は関白を辞任しており、辞任を前提とした職権の復旧であるとみられる[4]。天承2年(1132年)1月14日には、忠実に内覧が命じられた。しかしこの時には関白藤原忠通がおり、病でない関白と内覧が併存する初めての事態となった[12]。これは摂関の辞任が政治的に困難である状況で、摂関の権限を奪うための処置とみられており、後の藤原頼長・九条兼実の内覧就任もこうした背景を持つ[15]。
鎌倉時代には関白九条道家が辞任後内覧となっているが、これは息子の関白九条教家を後見する役割を持ったものであり、実質的には関白を上回る権力を持っていた[16]。その後、前関白が内覧宣下を受ける例が多く見られるが、これは摩擦を起こさず平和的に摂関を譲った者に対する優遇措置として用いられていた[16]。仁治3年(1242年)には関白二条良実が内覧宣下を受けるという事態が発生している。これは前関白近衛兼経が関白辞任後にも内覧としての職務を行っていたため、政治的な均衡を取るための措置であったとみられるが、これ以降現任の摂関が別途内覧宣下を受けることがみられるようになり、天正13年(1585年)の二条昭実以降は摂関補任の日に内覧宣下を受けることが恒例となっていく[17]。
建武の新政期には関白は置かれなかったが、前関白であった二条道平・近衛経忠の二人が内覧に任じられ、後には鷹司冬教がこれに加わった[18]。また足利義満は左大臣在任期間中、後円融上皇により「内覧」としての沙汰を行うように命じられており[19]、摂政二条良基も義満が内覧であると認識していた[20]。これは藤原氏以外の者が内覧となった最初の例であるが、宣下日は不明である。
安土桃山時代には摂家の人物の処遇として内覧宣下が行われることもあった[21]。豊臣秀次の切腹後、摂関が置かれない時期が5年ほど続くが、この時期には内覧も設置されていない[22]。また、摂関に就任できない人物の処遇として内覧を命じる事例もある。摂家にとって摂関に任じられない世代が現れれば、次の世代にも影響をおよぼすため、名目的に内覧宣下を受けることで摂関に就任したと同じ意味合いをもたせる目的があった。この名目的な内覧の最たる例が一条内実であり、内実は内覧宣下を受けた当日に死亡している[23]。
江戸時代には禁中並公家諸法度によって摂関の任免には江戸幕府の同意が必要であったが、内覧の任免については幕府の命令は及ばなかった。このため孝明天皇は自らの信任する人物に影響力を持たせるために内覧宣下や内覧職権停止を行っている[6]。
最期の内覧補任は文久3年(1863年)の八月十八日の政変後の9月19日に、右大臣二条斉敬が補任されたものである[5]。斉敬はその後摂政となったが、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により摂関が廃止され、斉敬が内覧も合わせて辞したことで、内覧制度は消滅した[5]。
脚注
出典
参考文献
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