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保阪 正康(ほさか まさやす、1939年(昭和14年)12月14日 - )は、日本の作家・評論家[1]。
北海道札幌市生まれ、二海郡八雲町育ち[2](なお、自著のプロフィールでは「北海道生まれ」のみと表記し、出身市町村については明記していない[3][4][5])。
北海道札幌市で教員の父親のもとに生まれる[6]。父親は群馬県、母親は江別市出身[6]。父親の勤務の関係で、生後間もなく江別市に移り、3歳で福島県二本松市、5歳で北海道二海郡八雲町に移る[6]。そのまま八雲町で終戦を迎え、小学校6年まで同町で育った後、根室市を経て札幌市白石町(現・札幌市白石区)に移った[7]。札幌市立柏中学校、北海道札幌東高等学校を卒業。阿部典英は中学高校の同級生[8]、西部邁は中学校の1年先輩に当たる[9]。同志社大学文学部社会学科卒業。在学中は演劇研究会で特攻隊員を描いた創作劇を執筆。
卒業後、電通PRセンターへ入社。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送る。1970年に三島由紀夫事件をきっかけに死のう団事件を2年間取材。途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じ、1972年にデビュー作として『死なう団事件』で作家として出版する。2004年、個人誌『昭和史講座』の刊行で第52回菊池寛賞受賞[10]。2017年、『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞受賞。2018年、第72回北海道新聞文化賞受賞[11]。
『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫、2004年)p.269によると、「父が七十五歳で肺がんとわかり、余命宣告を受けたとき、私は不意に父についてすべてが知りたくなった。父が重い口を開いて明かしたのは、父の家は七日市藩の家老の出であり、この七日市藩というわずか一万石の小藩の家老の波乱に富んだ歩みだった」とあり、江戸時代に出版された武鑑(国立国会図書館デジタルコレクション)でも確認することができる。
札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛健太郎がいた。京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生であり、1960年6月の運動最盛期にはそれまでの地元の商店主やタクシー運転手から『迷惑だ』との怒声がなかったこと、反対デモ参加者の多くは安保条約改定の中身を知らなかったことを明かしている[12]。
小林よしのりは「戦争の原因を自国の中でのみ探り、外国の視点がまったく抜け落ちているため、狭い蛸壺に入ってしまったような歴史観になっている」として、保阪の歴史観を「蛸壺史観」と評している[13]。
田辺敏雄も保阪の著書『戦場体験者 沈黙の記録 』に出て来る「平頂山事件」の記述に対し、朝日新聞で連載された本多勝一による中国の旅から45年経っても中国側の説明や証言を鵜呑みにし、日本側の裏づけ取材が皆無な事が繰り返されていると思わざるを得ないと評した。
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