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日本の第16代天皇 ウィキペディアから
仁徳天皇(にんとくてんのう、旧字体:仁德天皇、神功皇后摂政57年 - 427年?[1][2]〈仁徳天皇87年1月16日〉)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。実在したとすれば4世紀末から5世紀前半に在位したと推定されている。その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
4世紀末から5世紀前半に実在した可能性のある天皇。誉田天皇(応神天皇)の第四皇子。母は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)。誉田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した[3]。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。
一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。
漢風諡号である「仁徳天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
応神天皇40年1月8日、父・誉田天皇から兄・大山守命と共に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。
翌年の応神天皇41年2月、誉田天皇が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので皇位の譲り合いとなった。これが三年続き、貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。
即位元年1月3日、都を大伴氏などが本拠を置いていた難波の上町台地、難波高津宮に遷した。
即位4年、天皇が高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知った。そこで以後三年間、課税と労役を全てとりやめることにした。そして自らは、宮の屋根が壊れ雨漏りしても直すこともしなかった。
即位7年、三年が経過して再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていた。諸国は課税再開を要請したが、結局即位10年まで課税停止は延長された。
その後は河内平野一帯で大規模な治水工事を行った。日本書紀には、次の事績が記されている。
また、古事記には、次のとおり記されている。
この天皇の御世に、大后 ()石之日売命の御名代 ()として、葛城部を定め、また太子 ()伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部 ()を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。 また、秦人を役 ()ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池 ()、依網 ()池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江 ()を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。
即位2年3月、葛城襲津彦の娘で武内宿禰の孫にあたる葛城磐之媛を皇后とした。難波を拠点とする天皇にとって、大和を押さえる葛城氏は重要な同盟者だった。磐之媛は去来穂別尊・瑞歯別尊・雄朝津間稚子宿禰尊を生み、それぞれが履中天皇・反正天皇・允恭天皇となった。以降、葛城氏は皇室の外戚として政権内で強大な権力を握った。しかし仁徳天皇は他にも多くの妃を持っていた。なおかつ皇后の磐之媛命は嫉妬深い人物だったため、女性関係に悩むことになった。『古事記』によると黒日売という美人が妃として宮中に召されたが、皇后の嫉妬を受け実家の吉備に逃げ帰ったという。
即位16年、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を気に入ったが皇后の嫉妬が強くて召し上げられず嘆いた。
即位22年、今度は異母妹の八田皇女を妃にしようとしたが、またしても皇后の反対でかなわなかった。8年後の9月、皇后が宴のための御綱柏を取りに木国へ出かけた隙をついて天皇はついに八田皇女とまぐわってしまった。帰路、このことを伝え聞いた皇后は捕った葉を全て捨てた。そうとは知らない天皇は皇后を迎えに港まで行って歌を詠んだ。
難波人 鈴船取らせ 腰なづみ 其の船取らせ 大御船取れ
しかし皇后の船は港を素通りした。皇后はそのまま川を遡り山背を通って実家の葛城に帰ってしまった。そこで天皇は家臣に歌を託して皇后の機嫌を取ろうとした
山背に いしけ鳥山 いしけいしけ 我が思う妻に いしき会はむかも
皇后の心は変わらず、ついには山背の筒城岡に宮を築いて引きこもってしまった。天皇は口持臣(的臣の祖)を遣わしたが皇后は無視した。11月、ついに天皇は山背に行幸。道中で川の水に流れる桑の枝を見て、歌を詠んだ。
つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木 寄るましじき 川の隈々 寄よろほひ行くかも 末桑の木
そして筒城宮の前につくと皇后に向かって歌を詠んだ
つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 さわさわに 汝が言へせこそ 打ち渡す やが栄えなす 来入り参来れ
つぎねふ 山背女の 木鍬持ち 打ちし大根 根白の白腕 枕かずけばこそ 知らずとも言はめ
それでも皇后の怒りは解けず別居状態が続いた。
即位31年1月、皇后との間に生まれた長男の去来穂別皇子を太子とした。
即位35年、皇后が5年間の別居の末に筒城宮で崩御。二年後、皇后を乃羅山に葬った。
即位38年、八田皇女を立后。
即位40年、妃として望まれた雌鳥皇女は天皇を拒絶し、使者として遣わされた隼別皇子と結婚してしまった。私事を国事に及ぼさぬよう一度は黙認した天皇だったが、増長した二人は反逆を企てるにまで至ったため激怒して誅殺した。
即位87年、崩御。「八十七年の春正月の戊子の
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なお『古事記』では宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ、菟道稚郎姫皇女。応神天皇の皇女)とも結ばれたとしているほか、黒日売(くろひめ。吉備海部直の女)という女性も登場するが、黒日売は妃になってはいない。
仁徳天皇の男系の皇統は玄孫にあたる武烈天皇が嗣子なく崩御したため途絶えるものの、同じく玄孫で武烈天皇の姉にあたる手白香皇女と橘仲皇女が、いずれも傍系(弟の稚野毛二派皇子の子孫で、手白香皇女は継体天皇、橘仲皇女は宣化天皇)たる天皇の皇后となって嗣子(手白香皇女・継体天皇は欽明天皇、橘仲皇女・宣化天皇は石姫皇女をもうけ石姫皇女は欽明天皇の皇后となり敏達天皇)をもうけ、その嗣子の皇統が今日の皇室へと続いている。
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[4]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
帝号 | 年 | 月 | 事績 |
---|---|---|---|
神功(摂政) | 57年? | 誕生 | |
応神 | 13年 | 3月 | 父の応神天皇が呼び寄せた日向髪長媛と出会う |
9月 | 日向髪長媛を譲られる | ||
40年 | 1月 | 弟の菟道稚郎子の立太子について兄の大山守皇子と共に応神天皇から相談を受ける | |
41年 | 2月 | 応神天皇崩御 大山守皇子の反乱 菟道稚郎子と皇位の譲り合い | |
43年(空位三年目) | 菟道稚郎子が薨去。菟道の山の上の陵に葬る | ||
仁徳 | 元年 | 1月 | 即位。難波高津宮に遷都 |
2年 | 3月 | 葛城磐之媛を立后 | |
4年 | 3月 | 人家の煙が無いことに気づき、三年間の課税停止を宣言 | |
7年 | 8月 | 壬生部と葛城部を定める(皇子と皇后の名代) | |
9月 | 課税停止を続行 | ||
10年 | 10月 | 課役再開、宮殿再建 | |
11年 | 10月 | 難波の堀江、茨田堤を開削 | |
12年 | 7月 | 高麗の朝貢 | |
10月 | 山背の栗隈県に堀を作る | ||
13年 | 9月 | 茨田屯倉を作り春米部を定める | |
10月 | 和珥池・横野堤を作る | ||
14年 | 11月 | 猪甘津に橋を渡す。都に大道を作る。感玖に堀を作る | |
16年 | 7月 | 桑田玖賀媛の悲恋 | |
17年 | 7月 | 砥田宿禰と賢遺臣を新羅に遣わす。 | |
22年 | 1月 | 八田皇女を妃に求める。皇后は反対する。 | |
30年 | 9月 | 異母妹の八田皇女を妃にしたため、皇后が山背の筒城岡に別居 | |
31年 | 1月 | 去来穂別尊を立太子 | |
35年 | 6月 | 皇后崩御 | |
37年 | 11月 | 皇后を奈良山に埋葬 | |
38年 | 1月 | 八田皇女を立后 | |
40年 | 2月 | 雌鳥皇女と隼別皇子の反乱 | |
41年 | 3月 | 紀角宿禰を百済に派遣。非礼を働いた酒君を連行 | |
43年 | 9月 | 鷹狩伝来 | |
50年 | 3月 | 雁の産卵について武内宿禰に問う。 | |
53年 | 5月 | 上毛野竹葉瀬と田道の兄弟に新羅征伐を命じる | |
55年 | 上毛野田道に蝦夷征伐を命じる | ||
58年 | 10月 | 呉と高麗が朝貢 | |
60年 | 10月 | 白鳥陵の陵守の廃止を取り止める | |
62年 | 10月 | 遠江の大木で船を建造する。額田大中彦皇子による氷水の献上。 | |
65年 | 武振熊を飛騨に派遣。両面宿儺を征討。 | ||
67年 | 5月 | 陵墓地を定め百舌鳥耳原と名付ける | |
87年 | 1月 | 16日、崩御。『日本書紀』は宝算の記載なし。110歳(『水鏡』『皇代記』)83歳(『古事記』) |
即位後は上町台地の先端付近、神武天皇即位前、天皇が創建した生國魂神社付近であり都をそれまでの大倭、または行宮の難波大隅宮から大伴氏なども本拠地を置いていた難波(なにわ)に遷都し、皇居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。
陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある遺跡名「大仙陵古墳(大山古墳)」に治定されている(北緯34度33分50秒 東経135度29分14.5秒)。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長525メートル、後円部286,33メートル、前方部幅347メートルもあるという調査結果が2018年4月12日に発表された。墳丘長、体積共に日本一の前方後円墳であり、世界的に見ても最大級の墳墓である。
『古事記』には「御陵は毛受(もず)の耳原にあり」、『日本書紀』には寿陵であったと記され、「(八十七年)冬十月の癸未の朔己丑に、百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる」とある。『延喜式』諸陵寮には「百舌鳥耳原中陵。在和泉国大鳥郡。兆域東西八町。南北八町。陵戸五烟。」と記されている。陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。
応神天皇11年、誉田天皇(応神天皇)は日向国の髪長媛という麗しい娘の噂を聞き、二年後に都へ召し上げた。諸県君牛諸井(もろがたのきみ うしもろい)という豪族の娘である。その髪長媛が難波津に到着し、桑津邑に留まっていた際、即位前の大鷦鷯尊(仁徳天皇)は一目見るなり惚れこんでしまった。そこで大臣の武内宿禰を通じて髪長媛を譲ってもらえないか頼み込んだ。そこで誉田天皇は初めて髪長媛を召した宴席に大鷦鷯尊を加わらせた。そして髪長媛を差して歌を詠んだ。
この歌は天皇が髪長媛を諦めることを意味していた。喜んだ大鷦鷯尊は返歌をした。
大鷦鷯尊と髪長媛はすぐに懇ろとなり、二人きりで歌を詠みあった
『日本書紀』の即位60年以降には、いくつかの奇譚が記されている
『日本書紀』応神紀における吉備行幸や枯野船の逸話が『古事記』では仁徳記にある。このように事績の一部が父の応神天皇との混同・重複は、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説、あるいは当時の特殊な紀年方法で記された年代をそのまま後世後世の紀年に当てはめたことによる混乱説などがあるが定かではない。 逆に『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする説もある。
津田左右吉は、仁徳天皇の仁政記事は、史記の堯・舜・禹の伝説をもとにして書かれたものであり、史実ではないと指摘して、津田事件に発展した。
直木孝次郎も、中国の史書をもとに創作された記事で、王朝の初めに聖天子が現れるという思想をもとに書かれたものであり史実ではないとしている[5]。
仁徳天皇が、どの家にも竈の煙が昇っておらず、これにより民衆が炊事もできないほど貧しいことを知り、三年間、課税と労役を全て止める事にした。という説話は、5世紀代には近畿地方において竈は普及しておらず、史実を反映した記述ではない[6]。
『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」中の讃(さん)または珍(ちん)、あるいは武(ぶ)の祖とされる禰に比定する諸説がある。仁徳天皇58年(370年)に「呉」国が朝貢したという記事は60年繰り下げると430年となり、宋書は本紀で倭国王の朝貢を記すが、王の名前は書かれていない。『古事記』では応神天皇の崩御年(すなわち仁徳の即位年)を甲午(394年?)とし、仁徳天皇の崩御を丁卯年(427年?)、宝算を83歳と記している[2]。
王朝交替説において一部の研究者は、応神天皇の出生が伝説的であることや上述の通り仁徳との事績の重複から、仁徳が新王朝を創始するに当たって自身の父である誉田別の経歴を誇大して「応神天皇」の存在を作り上げたとする。
2023年に仁徳天皇の難波の高津宮は大阪城本丸地区にあった可能性が高いとする論考を学術誌「ヒストリア300号」(大阪歴史学会)にて関西大学教授の西本昌弘教授が発表して注目されている[7]。
仁徳天皇は、日本の伝説的な天皇であり、紀元後4世紀から5世紀初頭にかけて在位したとされている。しかし、彼の実在性については歴史的な証拠が殆ど無く、神話や伝説の中のみ語られている。その為、現在では仁徳天皇は実在していなかったという説もある[8]。
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