久能山東照宮
静岡市駿河区にある神社 ウィキペディアから
静岡市駿河区にある神社 ウィキペディアから
久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。江戸幕府を創始し、晩年を駿府(現:静岡市葵区)で大御所として過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去、遺命によってこの地に埋葬された。駿河湾に面した久能山の南斜面に設けられた表参道(1159段の曲がりくねった石段)を登った上に神社がある[2]。
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。2015年(平成27年)には鎮座400年を迎え、様々な催し物が企画、開催された。
※新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦(1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。「同年4月(4月)」は旧暦4月(新暦4月)、「同年4月(4月か5月)」は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。
久能山(標高216m)は元々、北側にある日本平とともに太古の海底隆起によって形成された。長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
推古天皇(592年- 628年)の頃、秦氏の末柄にあたる秦久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。
永禄11年(1568年)、駿河侵攻で駿府を制した武田信玄が久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた[注釈 1][3]。しかし、甲州征伐による武田氏滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)12月には江戸幕府第2代将軍徳川秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。日光東照宮は第3代将軍徳川家光の代における「寛永の大造替」で、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった。同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(後述の事情で現存せず)、楼門が増築された。
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家であった。
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた。
<>は関連事項。
■大祭
■諸祭
重要文化財(国指定)
(指定年月日)
社殿拝観料は大人:500円 小人:200円。(2016年1月現在)
国宝
重要文化財(国指定)
「徳川家康関係資料」は、家康旧蔵の調度品、茶道具などの奉納品を一括指定したもの。指定品中には、家康公の時計と言われる1581年の銘があるスペイン製の置時計(日本に現存する最古のゼンマイ式南蛮時計)、日本最古の鉛筆などが含まれる。南蛮時計はフェリペ2世のお抱え時計師ハンス・デ・エバロの製作で、1611年にセバスティアン・ビスカイノが献上したもの。ハンス・デ・エバロの製作で久能山東照宮の他に現存している時計は、スペインのエル・エスコリアル宮殿にある1583年製のもの他1個のみといわれている。
徳川家康関係資料
神服、調度類
書画、典籍類
道具類
附指定
出典
又は
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.