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日本の俳優 ウィキペディアから
丸井 太郎(まるい たろう、1935年11月24日[1][注釈 1] - 1967年9月6日)は、日本の俳優。本名:石上 正治(いしがみ しょうじ)[1]。身長165cm・体重86.25kg[1]。東京府(現東京都)北区出身[1]。
東京都立第四商業高等学校在学中に俳優を志すが、演出家を志望するようになる[1]。そこから演劇グループを作り浅草吉田町の幼稚園を借りて演劇活動を行い、演出を担当[1]。丸井によれば高校在学中は痩せており、学校を卒業した後、規則正しい生活を行わなくなったことで太ってしまったと述べている[1]。高校卒業後、文学座舞台技術研究所に入る[1]。始めは演出部の仕事に携わっていたが、飯沢匡に気に入られ、裏方の仕事と並行して飯沢の書いた芝居に端役として出演[3]。研究所卒業が近づき、今後に備えて知人が務めていた大映に履歴書を提出するが、照明部員として文学座に採用される[3]。1年後に大映から審査通過の連絡が来たことから大映に入社[3]。デビュー作は『土俵物語』[1]。芸名は三角八郎とピン・ボケコンビを結成した際に永田秀雅から命名された[3]。
三角とのコンビで喜劇映画に何本か出演するも芽が出ず、大部屋俳優として過ごしていたが、1963年にテレビドラマ『図々しい奴』の主役に抜擢された[1][4]。同作品への起用は枝川弘の推薦によるものとされる[1]。同作品は平均視聴率30%強・最高視聴率45.1%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)という大ヒットを記録して一躍人気者になり、テレビドラマのオファーが殺到した[5]。同年11月19日[1]、茶道家の小堀宗積の義理の妹にあたる女性と結婚[6]。
しかし、当時の映画界は五社協定により人気スターがテレビドラマに出演することが許されなかった。それは「売れている役者は映画優先」という五社協定の事項及び永田雅一社長が率いる大映の方針により、丸井も映画界に戻らざるを得なかった。しかし、その後の丸井を待っていたのは飼い殺しに等しい扱いである。肥満体で朴訥(ぼくとつ)という丸井の良さを引き出す作品に出会えず、勝新太郎や市川雷蔵の主演シリーズ・特撮映画で脇役を演じるに留まった。
その境遇に絶望した丸井は1967年9月6日、ガス自殺を図り絶命した。31歳没。「妻にもう一度会いたい」と言った内容の走り書きが残されていた[7]。 その後大映は1971年に倒産するが、その主な要因となった映画事業の赤字による巨額負債が表面化したのは、丸井の死去から半月後のことであった。
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