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日本の東北地方で用いられる地域名 ウィキペディアから
三陸(さんりく)は、青森県、岩手県、宮城県にまたがる三陸海岸と、その内陸部である北上山地を指す地域名である[1]。元々は令制国である陸奥国、陸中国、陸前国の3国の総称だった[2]が、現在の三陸はこの三陸海岸地域を指すことの方が多い[3]
江戸時代には、現在の岩手県釜石市の石塚峠(北緯39度13分20.4秒 東経141度53分23.5秒)を境に、北側が南部氏の盛岡藩および八戸藩で、南側が仙台藩の知行域となっていた[4][5][6]。江戸時代において、三陸沿岸全体を指す名称は不明である。ただし、地域名としては、南部藩領内を「三閉伊通」(さんへいどおり)あるいは「海辺道[7]」と呼んでいたことが知られている。
1869年1月19日(明治元年12月7日)、戊辰戦争において賊軍となった奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われ、減封と領地換えによって三陸沿岸は従前のように八戸、盛岡、仙台各藩のみの領内ではなくなった。同日、太政官布告により、陸奥国が5つに分割され、おおむね3藩の旧知行域には陸奥国、陸中国、陸前国の3箇国が設置された[3]。3つの「陸」の付いた国は「三陸」と総称されるようになり、3藩の旧知行域を指す言葉として用いられるようになった[3]。
陸奥、陸中、陸前の3国の範囲を現代の地理で表すと次の通りである。
青森県八戸市の鮫角岬から岩手県の太平洋側を経て宮城県の牡鹿半島までのリアス式海岸および付属諸島を指して三陸海岸という。三陸海岸に面する地域は、地理的な位置や産業構造の類似性から、一括して三陸地方あるいは、単に三陸と呼ばれることが多い[3]。
1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震で発生した津波により、三陸沿岸は甚大な被害を受けた。しかし当時、三陸沿岸全体を指す言葉が無かったため、この災害の報道では当初様々な呼称が用いられた。やがて三陸という言葉が用いられるようになり、三陸海岸と呼ばれるようになった[3]。
なお、蝦夷征討のあった800年頃は岩手と宮城にまたがる三陸沿岸(リアス式海岸とその沿岸部)の南部地域一帯は気仙と呼ばれており、ケセンという地名はアイヌ語で「入り江」「削られた場所」を表すとされ、ケセンの呼称はこの一帯の複雑な海岸線を持つリアス式の地形(海岸と陸を含む意)を意味するものだったようだ。[要出典]
三陸海岸に面する岩手県の旧三陸町(現大船渡市の一部)、および、宮城県の南三陸町が自治体名としてこの広域地名を用いた例がある。
太平洋における海域、あるいは漁場の名称として「三陸沖」が用いられる。親潮(寒流)と黒潮(暖流)がぶつかる世界三大漁場の1つである。
三陸沖の沿岸では、高度に発達した貝塚]文化が縄文時代前期に誕生し、骨角製漁労用具は現在使用されている漁具の原型と考えられ、質・量ともに日本を代表する漁場であり水産日本のルーツとも呼ばれる[誰によって?]。[要出典]
「三陸沖」は狭い範囲から並べると以下のようなものがある。
国の機関では、2の令制国の範囲を「三陸沖」とする例が見られるものの、4にあたる勿来以北の沖合いを「三陸沖」とする場合が多い[8]。海上の天気予報は4-1を用いる[11][12]。ただし、地震の名称では、1にあたる三陸海岸の沖合いを「三陸沖(三陸沖地震)」としている。一方、「三陸沖」に対して、福島県浜通り及び茨城県にかけての沖合いは「常磐沖」と呼ばれることもある[13]。
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