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アメリカのSF作家 (1928-1982) ウィキペディアから
フィリップ・キンドレド・ディック(Philip Kindred Dick, 1928年12月16日 - 1982年3月2日[4])は、アメリカのSF作家。
フィリップ・K・ディック Philip K. Dick | |
---|---|
ペンネーム |
Richard Philips Jack Dowland |
誕生 |
フィリップ・キンドレド・ディック(Philip Kindred Dick) 1928年12月16日 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ |
死没 |
1982年3月2日 (53歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンタアナ |
職業 | SF作家 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
活動期間 | 1952年 - 1982年 |
代表作 | 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、『高い城の男』など |
主な受賞歴 | ヒューゴー賞、ネビュラ賞 |
デビュー作 | 『ウーブ身重く横たわる』 |
署名 | |
公式サイト | Philip K. Dick Official Site |
ウィキポータル 文学 |
ディックの小説は社会学的・政治的・形而上学的テーマを探究し、独占企業や独裁的政府や変性意識状態がよく登場する。後期の作品では、形而上学と神学への個人的興味を反映したテーマに集中している。しばしば個人的体験を作品に取り入れ、薬物乱用や偏執病・統合失調症や神秘体験が『暗闇のスキャナー』や『ヴァリス』といった作品に反映されている[5]。
1963年、歴史改変SF『高い城の男』でヒューゴー賞 長編小説部門を受賞[6]。1975年、未知のパラレルワールドで目覚めた有名人を描いた『流れよ我が涙、と警官は言った』でジョン・W・キャンベル記念賞を受賞した[7]。1978年、『暗闇のスキャナー』で英国SF協会賞を受賞。ディックは、それらの作品について、「私は、私が愛する人々を、現実の世界ではなく、私の心が紡いだ虚構の世界に置いて描きたい。なぜなら、現実世界は、私の基準を満たしていないからだ。私は、作品の中で、宇宙を疑いさえする。私は、それが本物かどうかを強く疑い、我々全てが本物かどうかを強く疑う」と述べている[8]。ディックは、自らを "fictionalizing philosopher"(小説化する哲学者)と称していた。なお、philosopherは、哲学者以外に、冷静な人、賢人、思慮深い人などを指す言葉である。
ディックは、44編の長編と[9]、約121編の短編小説を書いた。そして、そのほとんどがSF雑誌に掲載された[10]。ディックは、作家になってからは、ほぼ常に貧乏だったが[11]、彼のいくつもの作品が映画化された。生前の『ブレードランナー』、死後の『トータル・リコール』、『スキャナー・ダークリー』、『マイノリティ・リポート』である。『バルジョーでいこう!』のような一般映画も、ディック作品を原作として生まれている。
2005年、タイム誌が1923年以降の英米の小説ベスト100を掲載し、そこにはディックの『ユービック』も含まれていた[12]。2007年、ディックは、SF作家として初めて The Library of America series に収録された[13][14][15][16]。
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムはアメリカSFを全面批判したが、ディックだけは称賛し「ペテン師に囲まれた幻視者」と彼を評している[17]。ただし、後の1976年に「アメリカSF批判」の件でレムがアメリカSF作家協会から追放された「レム事件」が起きた際、ディックは「ポーランドで自分の作品が騙されて出版された」として、彼を猛烈に非難した[18]。
ディックの父は、アメリカ合衆国農務省の役人だった[19]。
1928年、イリノイ州シカゴにて二卵性双生児の一子として生まれる[4]。双子の妹ジェイン・シャーロット(Jane Charlotte)は40日後に死去した。その死は、彼の作品、人間関係、人生にまで影響を与え、多くの作品に「幻影の双子」のモチーフが登場する原因となった[19]。
その後、一家はサンフランシスコ・ベイエリアに引っ越した。ディックが5歳のとき、父はネバダ州リノに転勤になったが、母はついて行くのを嫌がり、結果として両親が離婚することになった。親権は母親が得た。母はワシントンD.C.に職を得て、そこにディックと共に引っ越した。ワシントンD.C.では、小学4年生まで過ごした。作文の成績は "C" だったが、教師は「物語を作ることへの興味と才能がある」と意見を記している。1938年7月、母と共にカリフォルニアに戻り、この頃からSFに興味を持ち始めた[20]。ディックは、後に1940年に初めてSF雑誌というもの("Stirring Science Stories"という誌名だったという)を読んだと述べている[20]。
バークレーの高校に入学した。アーシュラ・K・ル=グウィンとは同じ高校の同学年(1947年卒)だったが、当時は互いを知らなかった[21][22][23]。高校卒業後にカリフォルニア大学バークレー校に進学してドイツ語を専攻したが、ROTCに参加するのが嫌で中退した。バークレーでは、詩人のロバート・ダンカンや詩人で言語学者のジャック・スパイサーと親交を結び、スパイサーはディックに火星人語のアイデアを与えている。ディック本人の言によれば、彼は1947年にKSMOというラジオ局でクラシック音楽番組の司会を務めていたという[24]。1948年から1952年まで、レコード店の店員として働いた。1955年、ディックとその2番目の妻であるクレオ・アポストロリデエスの前にFBIの捜査員が現れた。彼らは、クレオが社会主義者で左翼活動をしていたせいだと思い込んだ。2人はそのFBIエージェントに一時的に力を貸した[25]。
1950年代初期に執筆した処女作「市に虎声あらん」は、核実験やカルト宗教を題材にしたSFではない文学作品だったが、暴力描写などが原因で生前は出版社に拒否され、結局出版できたのは2007年であった。1951年に出版社に売れた最初の小説「ルーグ」も修正を指示され、雑誌に掲載できたのは1953年だった。この作品以降専業作家となり、商業誌に最初に作品が掲載されたのは1952年の「ウーブ身重く横たわる」である。1955年には長編『太陽クイズ(偶然世界)』が初めて売れた。1950年代はディックにとって最も貧しく苦しい時期で「図書館の本の延滞料すら払えなかった」という。SF短編を書いて糊口を凌いでいたが、出版できなかった処女作のような純文学を書くことを夢見ていた。この時期にジャンルに捕らわれないSF以外の長編をいくつか書いているが、注目を集めることはなく、1960年に「純文学の作家として成功するには20年から30年かかる」と書いている。しかし1963年1月、エージェントから売れなかった純文学作品を全て送り返され、純文学作家の夢が絶たれた。唯一生前に出版された純文学作品が『戦争が終り、世界の終りが始まった』である[26]。
1963年、『高い城の男』でヒューゴー賞を受賞[6]。SF界では天才として迎えられたが、エース・ブックスなどの原稿料の安いSF出版会社にしか相手にされなかったという面もある。その後も経済状態は好転しなかった。1980年に出版された短編集『ゴールデン・マン』でディックは「数年前病気になったとき、会ったこともなかったハインラインが何か出来ることはないかと助力を申し出てくれた。彼は電話で元気付けてくれ、どうしているかと気遣ってくれた。ありがたいことに電動タイプライターを買ってやろうと申し出てくれた。彼こそこの世界の数少ない真の紳士だ。彼が作品に書いていることには全く同意できないが、そんなことは問題ではない。あるときIRSに多額の課税をされてそれを払えずにいると、ハインラインがお金を貸してくれた。彼とその奥さんは私の恩人だ。彼らに感謝の印に本を捧げたこともある。ロバート・ハインラインは素晴らしい外見の男で、非常に印象的で軍人のような姿勢である。髪型に至るまで軍人としての背景が見て取れる。彼は私が頭のおかしいフリークだと知っていて、それでも私が困っていたときに助けてくれた。これこそが人間性というものだ。そういう人やものを私は愛している」と書いている[27]。
1972年、ディックは原稿や資料をカリフォルニア州立大学フラトン校の Special Collections Library に寄贈し、それが Philip K. Dick Science Fiction Collection として Pollak Library に収蔵されている。フラトン校でディックはSF作家の卵だったK・W・ジーター、ジェイムズ・P・ブレイロック、ティム・パワーズと親交している。ディック最後の長編は『ティモシー・アーチャーの転生』で、1982年、彼の死後に出版された。
1974年2月20日、ディックは親知らずを抜き、その際のチオペンタールの効果から回復しつつあった。追加の鎮痛剤の配達を受け取るためドアに応対に出ると、女性配達員は彼が "vesicle pisces" と呼ぶシンボルのペンダントを身につけていることに気づいた。この名称は彼が2つの関連するシンボルを混同していることに起因すると見られる。1つは2つの弧を描く線が交差して魚の形になっているイクトゥスで、初期キリスト教徒が秘密のシンボルとして用いたものである。もう1つは2つの円が交差した形の vesica piscis である。女性配達員が立ち去ると、ディックは奇妙な幻覚を体験し始めた。当初は鎮痛剤に起因するものと思われたが、何週間も幻覚が続いたためディックは鎮痛剤のせいだけではないと考えた。「私の心に超越的で理性的な精神が侵入するのを体験し、これまで正気でなかったのが突然正気になったかのように感じた」とディック自身がチャールズ・プラットに語っている[28]。
1974年の2月から3月まで彼は一連の幻覚を体験し、これを "2-3-74"(1974年2月-3月の意)と名付けた。ディックによれば、最初はレーザービームと幾何学模様の幻覚が見え、時折イエス・キリストや古代ローマの幻影が見えたという。幻覚は長さと頻度が増していき、ディックは自分が「フィリップ・K・ディック」であると同時にローマ人に迫害された紀元1世紀のキリスト教徒「トーマス」でもあり、二重の人生を生きていると主張し始めた。ディックは自らの体験を宗教的に解釈しようとし始めた。彼はその「超越的な理性的精神」を "Zebra"、"God"、"VALIS" などと呼ぶようになる。彼はその体験をまず半自伝的小説『アルベマス』に書き、さらに『ヴァリス』、『聖なる侵入』、『ティモシー・アーチャーの転生』というヴァリス三部作を書いた。
あるときディックは預言者エリヤが乗り移ったと感じた。彼は『流れよ我が涙、と警官は言った』が自身が読んだことのない聖書の使徒行伝の物語を詳細化した改作だったと信じた[29]。
ディックは5回結婚し、2人の娘と1人の息子をもうけた。すべて離婚して解消されている。
1982年2月17日、インタビューの仕事を終えた後に視界の不良を訴え、翌日脳梗塞で意識不明となっているところを発見された。搬送された病院で脳死と判定されてから、家族の判断で生命維持装置を外され、3月2日に亡くなった。53歳没。死後、父親が遺灰をコロラド州フォート・モーガンに持ち帰った。双子の妹が死んだ際、その墓にはディックの名も刻まれ、命日だけが空欄になっていた。ディックはその墓に妹と一緒に埋葬された。自作の初映画化である『ブレードランナー』の公開直前であり、ラッシュフィルムの段階で試写を見て小説の世界観がよく出ている
と満足を示す言葉を残したが、完成版を観ることはなかった[30]。
後にディックのファンにより姿を似せた遠隔制御式アンドロイドが製作された[31]。このアンドロイドはサンディエゴ・コミコンでの『暗闇のスキャナー』映画化発表で壇上で披露された。2006年2月、アメリカウエスト航空の従業員がこのアンドロイドの頭部を紛失し、未だに見つかっていない[32]。
1989年刊のローレンス・スーチンの伝記『聖なる侵入 フィリップ・K・ディックの生涯』(Divine Invasions: A Life of Philip K. Dick 未邦訳) がディックの伝記の決定版とされている[33]。
1993年にはフランス人作家エマニュエル・カレールが Je suis vivant et vous êtes morts を出版。これが2004年 I Am Alive and You Are Dead: A Journey Into the Mind of Philip K. Dick として英語に翻訳され出版された。ディックの内面を描いた伝記的小説である[34]。そのため、普通の伝記に見られる出典・脚注・索引などがない点が批判された[35][36][37]。
脚本家で映画監督のジョン・アラン・サイモンはディックの小説『アルベマス』をベースとした伝記映画"Radio Free Albemuth"を製作した[38]。
BBC Two は1994年にディックを扱ったドキュメンタリー Arena - Philip K Dick: A day in the afterlife を放送した[39]。
他にも The Gospel According to Philip K. Dick(2001)[40] や The Penultimate Truth About Philip K. Dick(2007)[41] といったドキュメンタリー映画が製作されている。
ディックはリチャード・フィリップス (Richard Phillips) とジャック・ダウランド (Jack Dowland) というペンネームを使って作品を発表したことがある。Fantastic Universe 誌1953年10月号に掲載された「生活必需品」はリチャード・フィリップス名義で掲載された。これは、「訪問者」という短編も同号に掲載されたためである[42]。
「ぶざまなオルフェウス」という短編はジャック・ダウランド名義で発表された。これは、主人公が偉大なSF作家ジャック・ダウランドのミューズとして霊感を授けようとする話で、作中でジャック・ダウランドはフィリップ・K・ディックというペンネームで「ぶざまなオルフェウス」という短編を書いたことになっている。
"Dowland" という姓はルネサンス期の作曲家ジョン・ダウランドにちなんだもので、ジョン・ダウランドはディック作品で何度か言及されている。例えば『流れよ我が涙、と警官は言った』の題名はダウランドの曲『流れよ、わが涙』を引用したものである。『聖なる侵入』に登場する有名歌手リンダ・フォックスはリンダ・ロンシュタットがモデルだが、彼女の歌う曲は全てジョン・ダウランド作曲とされている。
ディック作品は、「現実」というものの脆さと個人のアイデンティティの構築をテーマとすることが多い。何らかの強力な外部の存在によって(例えば『ユービック』[43])、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公らが徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている[44]。「彼の作品は全て、単一の客観的現実は存在しないという基本的前提から出発している」とSF作家チャールズ・プラットは書いている。「全ては知覚の問題である。地面はあなたの足元から変化していく傾向がある。主人公は別人の夢の中で生きていることに気づいたり、薬物に影響されて現実世界をよりよく理解できる状態になったり、完全に違う宇宙に足を踏み入れたりする」[28]
パラレルワールドと「シミュラクラ」がプロットの道具としてよく使われ、その世界には普通の労働者が住んでいる。アーシュラ・K・ル=グウィンは「ディック作品にはヒーローがいないが、英雄的行為は存在する。ディケンズを思い起こさせるところもあり、普通の人々の正直さ、貞節、親切、忍耐を大切にしている」と書いている[43]。ディックがカール・グスタフ・ユングに大きく影響されていることは明らかである[45][46]。特に、集合無意識の元型、集団投影/幻覚、シンクロニシティ、個性化論などの影響が強い[46]。『テレポートされざる者』などではユング心理学の用語が実際に使われている。
ディックのもう1つのテーマとして「戦争」があり、特に戦争への恐怖と憎悪がある。Steven Owen Godersky は「酸素が水に溶けるように彼の作品全体にそれが染み付いている」としている[47]。
また、精神疾患もよく扱われるテーマである。『火星のタイムスリップ』(1964) に登場するジャック・ボーレンは精神分裂病の前歴がある設定である。『アルファ系衛星の氏族たち』は、精神病院の患者たちの子孫が形成した社会を描いている。1965年には「分裂症と『変化の書』」というエッセイを書いている[33]。
薬物使用(薬物乱用)もよく見られるテーマで、『暗闇のスキャナー』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』に顕著である。ディックは生涯のかなりの期間で薬物を使用していた。1975年のローリング・ストーン誌のインタビューで[48]、ディックは1970年より以前の作品は全てアンフェタミンを服用した状態で書いたと述べている。インタビューでディックは「『暗闇のスキャナー』がスピードを全く飲まずに書いた最初の長編だ」と語っている。短期間だけサイケデリックを試したこともある。しかしローリング・ストーン誌が「LSD小説の古典でありオールタイムベスト」だとした『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』を書いたのは幻覚剤を試す前のことだった。アンフェタミンを多用したディックだが、後に医師から彼はアンフェタミンの影響を受けない体質で、それが脳に達する前に肝臓が処理していると言われたという[48]。
最晩年の作品であるヴァリス三部作(『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』。あるいは生前に刊行された『ヴァリス』『聖なる侵入』だけをもって「ヴァリス二部作」とも呼ばれる)では、キリスト教神学とグノーシス主義が中心モチーフになっている。そこでは、この世界が狂った神(ヤルダバオト)により想像された混沌であるというグノーシス思想が、「黒き鉄の牢獄」というキーワードで表現され、登場人物が、混沌の中に真の唯一者の兆候を探し、救済を求める様子が描かれる。
フィリップ・K・ディック賞はフィラデルフィアSFソサエティが主催するNorwesconで毎年授与されている。
ディックは多くの作家に影響を与えている。ディックの影響を受けたとされる作家としては、ウィリアム・ギブスン[50]、ジョナサン・レセム[51]、アーシュラ・K・ル=グウィン[52]がいる。
Philip K. Dick Society はディックの作品を管理する団体で、友人だった音楽評論家ポール・ウィリアムズが設立した。ウィリアムズはディックの遺産管理人も務め、ディックへのインタビュー本『フィリップ・K・ディックの世界―消える現実』(Only Apparently Real: The World of Philip K. Dick)も書いている。
ディックの死後、ディックを登場人物とした作品がいくつか書かれている。マイクル・ビショップのThe Secret Ascension (1987年、後に Philip K. Dick Is Dead, Alas に改題)は、ディックが純文学作家となっており、リチャード・ニクソンが支配する全体主義のアメリカでSFが禁止されている世界が描かれている。
他にも次のような小説でディックが登場している。
ディックは映画製作者にも影響を与えており、以下の映画作品がディック作品と比較されている。
2010年のSF映画15 till Midnight はディック作品の影響を認めている[63]。
ソニック・ユースのアルバム『シスター』(1987年)の一部はディック作品に着想を得ており、アルバムタイトルの「シスター」はディックの死んだ双子の妹を意味している。
ディックのポストモダン性の予示は、ジャン・ボードリヤール[64]、フレドリック・ジェイムソン、スラヴォイ・ジジェクといった多くの思想家達に注目されている[65]。ジジェクはジャック・ラカンの考え方を明確化するのにディックの短編小説をよく利用する[66]。
1975年、National Library for the Blind がディックに対して『高い城の男』を点字本にする許可を求めたところ、ディックは今後出版されるものも含めて全作品を点字にしてかまわないと返事をした[67]。そのため複数の作品が点字本になっている[68]。
2010年7月17日現在、初期の11作品がアメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっており、プロジェクト・グーテンベルクによって電子書籍化されている。詳しくは Dick, Philip K., 1928-1982 at Project Gutenberg を参照。
多数のディック作品が映画化されてきた。ディック本人が1974年にジャン=ピエール・ゴランによって映画化されるはずだった『ユービック』の映画用脚本を書いたことがあるが、このときの企画は頓挫した。その後、ディック自らが書いたシナリオが出版された(『ユービック:スクリーンプレイ』)。また、ブライアン・オールディスが『火星のタイムスリップ』の映画化をスタンリー・キューブリックに薦めていた時期があったという[69]。映画の多くはディックの原題をそのまま題名にしていない。これについてかつての妻Tessa(レスリー・バズビー)は「実際、ディック本人がつけた題名が本の題になったことはほとんどない。いつも、編集者が原稿を読んだ上で題名を決めていた。フィルはよい題名が思い浮かばないとよく言っていた。それができるようだったら作家じゃなくてコピーライターになっていたでしょう」と語っている[70]。映画化作品の売り上げの累計は2009年現在で10億ドルに達している[71]。
少なくとも3作品が舞台で上演されている。1つはオペラ『ヴァリス』で、1987年12月パリのポンピドゥー・センターで初演された。作詞作曲は Tod Machover。その後、英訳され若干の改変後イギリスでも上演され、1988年にCDも発売された。Linda Hartinian が脚本を書いた『流れよ我が涙、と警官は言った』が1985年6月にボストンで上演され、その後ニューヨークとシカゴでも上演されている。『アルベマス』を原作とする舞台も1980年代に上演された。
ラジオドラマ化作品としては、フィンランドで1996年に放送された Menolippu Paratiisiin(原作は短編 "Mr. Spaceship")がある。1956年にはNBCが X Minus One という番組で短編「植民地」と「地球防衛軍」[78]をラジオドラマとして放送している。
日本語訳された作品のみ記す。末尾の年は原書の出版年。また1982年以降の作品は、死後に出版された作品であることを示す。(タイトルが複数あるものは括弧内に示した)
なお、ディックのSF長編については、早川書房がまず、小説としての出来のいい作品を翻訳。その後、小説としての完成度は低いが、ディック的な魅力がある作品を、死後に訪れた再評価の波に乗り、サンリオSF文庫が大量に翻訳刊行した。サンリオSF文庫の廃刊後は、半数以上の作品がそのまま創元SF文庫に収録、もしくは新訳で刊行された。短編集ほか一部はハヤカワ文庫で改訂刊行。創元SF文庫はその後も未訳長編を翻訳しつづけ、2015年に『ヴァルカンの鉄鎚』ですべてのSF長編を刊行した。創元SF文庫で出ていた『暗闇のスキャナー』は映像化にあわせハヤカワ文庫で『スキャナー・ダークリー』として新訳再刊された。
2002年までの書誌はハヤカワ文庫「フィリップ・K・ディック・リポート」を参照。
原題 のないものは日本で編纂されたもの。
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