イギリスの外交官 (1826-1902) ウィキペディアから
初代キンバリー伯爵ジョン・ウッドハウス(英: John Wodehouse, 1st Earl of Kimberley, KG, PC、1826年1月7日 - 1902年4月8日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代キンバリー伯爵 ジョン・ウッドハウス John Wodehouse 1st Earl of Kimberley | |
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1897年のキンバリー伯 | |
生年月日 | 1826年1月7日 |
出生地 | イギリス、ウィモンダム |
没年月日 | 1902年4月8日(76歳没) |
死没地 | イギリス、ロンドン |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 自由党 |
称号 | 初代キンバリー伯爵、ガーター勲章士(KG)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | フロレンス |
内閣 |
第一次グラッドストン内閣 第二次グラッドストン内閣 |
在任期間 |
1870年7月6日 - 1874年2月16日[1] 1880年4月28日 - 1882年12月16日[1] |
内閣 |
第二次グラッドストン内閣 第三次グラッドストン内閣 第四次グラッドストン内閣 |
在任期間 |
1882年12月16日 - 1885年6月9日 1886年2月3日 - 1886年7月20日 1892年8月16日 - 1894年3月3日[1] |
内閣 | ローズベリー伯爵内閣 |
在任期間 | 1894年3月11日 - 1895年6月24日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1866年6月1日 - 1902年4月8日[3] |
1826年1月7日に第2代ウッドハウス男爵ジョン・ウッドハウスの長男であるヘンリー・ウッド閣下(Hon. Henry Wodehouse)とその夫人アン・ガードン(Anne Gurdon)の間の長男として生まれる[4]。
イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する[4]。
自由党政権下で外務省政務次官(1852年-1856年、1859年-1861年)、インド担当省政務次官 (在職1864年)、アイルランド総督(1864年-1866年)、王璽尚書(1868年-1870年)、植民地大臣(1870年-1874年、1880年-1882年)、インド担当大臣(1882年-1885年、1886年、1892年-1894年)、ランカスター公領大臣(1882年-1883年)、枢密院議長(1892年-1894年)、外務大臣(1894年 - 1895年)などの閣僚職を歴任した[4][5]。
彼がインド担当大臣として入閣していた第二次グラッドストン内閣期の1884年3月、スーダン・ハルトゥームでチャールズ・ゴードン将軍がマフディー軍に包囲され、ゴードン将軍を救出する援軍を派遣するか否かの閣内論争が発生したが、キンバリー卿は、首相グラッドストンや内相サー・ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートとともに最後まで援軍派遣に反対した(最終的には援軍派遣が決定されるが)[6]。
1846年5月29日に祖父ジョン・ウッドハウスの死去により以下の爵位・準男爵位を継承した[4][7]。
1847年に第3代クレアー伯爵リチャード・ホバート・フィッツギボンの娘フロレンスと結婚し、彼女との間に以下の三子を儲けた[4]。
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