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初代クロス子爵リチャード・アッシュトン・クロス(英語: Richard Assheton Cross, 1st Viscount Cross, GCB, GCSI, PC, FRS、1823年5月30日 - 1914年1月8日)は、イギリスの政治家、貴族。
初代クロス子爵 リチャード・クロス Richard Cross 1st Viscount Cross | |
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1895年頃のクロス卿 | |
生年月日 | 1823年5月30日 |
出生地 | イギリス、イングランド・ランカシャー・レッド・スカー |
没年月日 | 1914年1月8日(90歳没) |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 初代クロス子爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) |
内閣 |
第二次ディズレーリ内閣 第一次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 |
1874年2月20日 - 1880年4月18日 1885年6月24日 - 1886年1月26日[1] |
内閣 | 第二次ソールズベリー侯爵内閣 |
在任期間 | 1886年8月3日 - 1892年8月11日[2] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
プレストン選挙区 南西ランカシャー選挙区 ニュートン選挙区[3] |
在任期間 |
1857年3月27日 - 1862年 1868年11月17日 - 1885年11月24日 1885年11月24日 - 1886年8月19日[3] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1886年 - 1914年1月8日[3] |
1823年5月30日、ウィリアム・クロスとその妻エレンの三男としてイングランド・ランカシャーのレッド・スカーに生まれる[4][5]。
ラグビー校を経て、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業し、バチェラー・オブ・アーツ(BA)の学位を取得[6]。その後、リンカーン法曹院やインナー・テンプルで学び、弁護士となる[6]。
1857年から1862年にかけてプレストン選挙区、1868年から1885年にかけて南西ランカシャー選挙区、1885年から1886年にかけてニュートン選挙区から選出され、保守党所属の庶民院議員を務めた[5][6]。
1874年から1880年にかけて第二次ディズレーリ内閣に内務大臣として入閣した[5][6]。公衆衛生法や職工住宅法の制定を主導し、スラムや不衛生の抑制を目指した[7]。
1885年から1886年にかけての第一次ソールズベリー侯爵内閣でも内務大臣として入閣した[5][6]。
1886年から1892年の第二次ソールズベリー侯爵内閣ではインド大臣 として入閣[5][6]。また1886年に連合王国貴族としてクロス子爵に叙せられ、貴族院へ移籍した[3]。
1895年に成立した第三次ソールズベリー侯爵内閣では初めランカスター公領大臣、ついで1909年まで王璽尚書を務めた[5][6]。1902年に政界引退したのちはあまり登院せず、『英国人名事典』は1909年以降の議院における発言記録はないとしている[5]。1914年1月8日に90歳で死去した[5][6]。
1852年にジョージアナ・リオンと結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[4]。
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