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ブラジルのサッカークラブ ウィキペディアから
サンパウロFC (ポルトガル語: São Paulo Futebol Clube) は、ブラジル・サンパウロ州サンパウロを本拠地とするサッカークラブである。
サンパウロFC | ||||
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原語表記 | São Paulo Futebol Clube | |||
愛称 |
Tricolor(トリコロール) Soberano(統治者) O Mais Querido(最愛の人) Clube da Fé(信念のクラブ) | |||
クラブカラー |
赤(レッド) 白(ホワイト) 黒(ブラック) | |||
創設年 | 1930年 | |||
所属リーグ |
カンピオナート・ブラジレイロ カンピオナート・パウリスタ | |||
所属ディビジョン |
セリエA セリエA1 | |||
ホームタウン | サンパウロ | |||
ホームスタジアム |
エスタジオ・ド・モルンビー | |||
収容人数 | 67,052 | |||
代表者 | ジュリオ・カザレス | |||
監督 | ロジェリオ・セニ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
サンパウロ市内の高級住宅街、モルンビーにある上流階級向けスポーツクラブ、アトレチコ・パウリスターノ所属のサッカー部門として1900年に創設され、1935年に現在の形態になった。ホームグラウンドはモルンビーの中心地にあるエスタジオ・ド・モルンビーで、約8万人の観客を収容でき、スポーツクラブやジムなども併設されている。
ブラジル国内にはサンパウロFC(SPFC)を名乗るクラブが複数あるが、人気・実力面で最も有名なのはこのクラブである。チームのマスコットは聖パウロで、応援にもよく使用される。
サッカークラブ世界一を決めるトヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップ)で過去3回優勝(1992年・対FCバルセロナ、1993年・対ACミラン、2005年・対リヴァプールFC)しているほか、コリンチャンス、パルメイラス、サントスFCなどの強豪クラブが覇を競うカンピオナート・パウリスタにおいても20回以上の優勝を記録するなど、サンパウロ州だけでなく、ブラジルを代表するサッカークラブの1つである。
人気の面では、サンパウロ州でコリンチャンスに次いで人気があり、ブラジル全国では、CRフラメンゴ、コリンチャンスに続き、3番目に人気のあるクラブである[1]。なお、ファンは『サン・パウリーノ(Sao paulino)』と呼ばれている。(サンパウロ州民を意味する『パウリスタ(paulista)』とサンパウロ市民を意味する『パウリスターノ (paulistano)』と区別されている。)
1900年12月29日、上流階級向けスポーツクラブであるアトレチコ・パウリスターノのサッカー部門として創設。当時、基本的にイギリス人やドイツ人の移民のためのサッカークラブのみが活動していた中で、ブラジル人のためのクラブ創設という要望に応える形で誕生した[2]。
1902年に開幕したカンピオナート・パウリスタでは、初年度から3年連続で2位となり、4シーズン目の1905年に初優勝を遂げた。その後、1916年から1919年にかけて4連覇を達成するなど、1929年までに11回の優勝を数え、アマチュアリーグ時代に最も成功を収めたクラブとなった[2]。
ブラジルサッカー界にプロ化の機運が高まると、伝統的なアマチュアリズムを追求するCAパウリスターノはプロ化の潮流に反してリーグを離脱し、別リーグのLAF(Liga dos Amadores de Futebol:サッカーアマチュアリーグ)を1926年に立ち上げた。しかし、このリーグは4年しか存続できず、1930年1月8日にCAパウリスターノは解散した[2]。
1902年11月9日にクラブ創設。SEパルメイラスとは別クラブ。エリートチームであることを特徴としており、1915年までは、博士課程学生・エンジニア・法学士しかプレーすることが認められなかった[3]。上流階級向けクラブであるCAパウリスターノとは運営方針における親和性が高く、協調して行動することが多かった[2]。
1904年にカンピオナート・パウリスタに初出場を果たすと、1909年、1910年、1915年に同大会を制した。1926年にCAパウリスターノがリーグプロ化に反対して別リーグ(LAF)を創設すると、AAパルメイラスもこれに追従した。その後、プロ化への道を模索するも条件を満たすことができず、1929年12月に解散した[2]。
CAパウリスターノとAAパルメイラスの解散後、両クラブの中でプロ化を支持していたメンバーが合流して、1930年1月25日にサンパウロFCを結成した。両クラブ合わせて、これまでにカンピオナート・パウリスタを大会全体の約半数に相当する14回制しており、強者連合による後継クラブとしてサンパウロFCは誕生した。新しいユニフォームは、源流となる2クラブの伝統を継承して、赤と黒のストライプが採用された[2]。
サンパウロFCとして最初の公式試合は、1930年3月16日に行われたカンピオナート・パウリスタでのCAイピランガ(CA Ypiranga)戦で、0-0の引き分けであった。サンパウロFCは、このシーズンのカンピオナート・パウリスタをわずか1敗の2位で終えると、翌1931年には初優勝を遂げ、続く1932年、1933年、1934年も2位の成績を収めた[2]。
1935年、サンパウロFCは同じくサンパウロを拠点とするCRチエテ(CR Tietê)と合併し、最終的に同年12月16日に現在の形態となった[2]。
1年間の空白期間を経て、1936年にカンピオナート・パウリスタに復帰。1940年代に入るとサンパウロFCは最初の黄金期を迎え、この10年間でカンピオナート・パウリスタを5回制した。以降、同じサンパウロ州を本拠地とするコリンチャンス、パルメイラス、サントスFCとライバル関係を形成し、同大会のタイトルをこの4クラブでほぼ独占している。
コパ・リベルタドーレスには1972年に初出場を果たした。1992年から1993年にかけて、コパ・リベルタドーレスおよびトヨタカップをともに連覇した。当時の主力メンバーには、カフー、ザーゴ、ピンタード、ライー、ミューレルなどがいた。1992年のトヨタカップはヨハン・クライフ監督率いるFCバルセロナに、翌1993年はファビオ・カペッロ監督率いるACミランにそれぞれ勝利している。
2002年は、サンパウロFCを含むサンパウロ州の有力クラブの多くが、同時期に開催されていたリオデジャネイロ州のクラブとのリーグ戦であるトルネイオ・リオ=サンパウロ(Torneio Rio–São Paulo)に参加するため、カンピオナート・パウリスタに参加しなかった。代わりに両大会の終了直後に、トルネイオ・リオ=サンパウロにおけるサンパウロ州の上位3クラブ(コリンチャンス、パルメイラス、サンパウロFC)と、カンピオナート・パウリスタの優勝クラブ(イトゥアーノFC)の計4クラブによるスーペルカンピオナート・パウリスタ(Supercampeonato Paulista)[注 1]が開催され、サンパウロFCが優勝した。
カンピオナート・ブラジレイロには1967年から参加。サンパウロ州のパルメイラス以外のクラブ(サンパウロFC、コリンチャンス、サントスFC、ポルトゥゲーザ)が揃って出場辞退した1979年シーズンを除き皆勤している。1977年に初優勝を遂げて以降、2008年までに6回の優勝を記録している。2006年から2008年にかけてはセリエAの3連覇を達成した。1971年にセリエBが創設されて以来、下位リーグへの降格を経験したことがない[注 2]。
2005年のコパ・リベルタドーレスでは、パウロ・アウトゥオリ監督による指揮の下、決勝でアトレチコ・パラナエンセに勝利して優勝。続くクラブ世界選手権では、決勝でリヴァプールFCを下し、トヨタカップ統合後の初代世界王者となった。
インターコンチネンタルカップの優勝回数(2回)は、ブラジル勢として最多タイ[注 3]、コパ・リベルタドーレスの優勝回数(3回)および準優勝回数(3回)は、2023年終了時点でともにブラジル勢として最多タイ[注 4]である。
クラブ創設以来、色・デザインともにほぼ変更が加えられておらず、伝統が維持されている[4]。
サンパウロFCのクラブカラーは赤・白・黒の3色で、1930年1月25日のクラブ創設時に定義された。赤はクラブの起源であるCAパウリスターノのカラー、黒はもう一方の起源であるAAパルメイラスのカラー、白は両クラブに共通のカラーであった。新しいユニフォームは、2つのクラブの伝統を継承して、白地に赤と黒のストライプが採用された。このクラブカラーから、サンパウロFCはトリコロール(Tricolor)という愛称を持つ[4][5]。
コラソン・ジ・シンコ・ポンタス(Coração de 5 Pontas:ファイブポインテッド・ハート)と呼ばれる特徴的な五角形のエンブレムは、クラブ創設の数日後に制定された。当時としては斬新なデザインで、1930年以前に制定されたエンブレムで、これに類似するデザインのものは確認されていない[4][5]。
エンブレム上部の3つの赤い星は、3回のクラブ世界一のタイトル(1992年、1993年、2005年)を表している。2つの黄色い星は、かつてサンパウロFCに所属していた陸上競技選手のアデマール・ダ・シルバが、ヘルシンキオリンピック(1952年)およびメルボルンオリンピック(1956年)の男子三段跳で、2大会連続で金メダルを獲得したことに因んでいる[4][6]。
同じサンパウロ州を本拠地とするコリンチャンス、パルメイラス、サントスFCは、サンパウロFCとともにサンパウロ州の4大クラブと見なされており、これらのクラブとの対戦はクラシコと呼ばれる。コリンチャンスとのクラシコはマジェストーゾ(Majestoso:荘厳なダービー)、パルメイラスとのクラシコはショキ・ヘイ(Choque-Rei:王者の衝突)、サントスFCとのクラシコはサン・サン(San-São:両クラブの頭文字)と呼ばれている。
優勝 | 準優勝 | 3位 | ベスト4 |
シーズン | カンピオナート・パウリスタ | カンピオナート・ブラジレイロ | コパ・ド・ブラジル | コパ・リベルタドーレス | コパ・スダメリカーナ | クラブワールドカップ | その他 |
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2001 | セリエA1 8位 | セリエA 7位 | ベスト8 | - | 未開催 | - | トルネイオ・リオ=サンパウロ 優勝 |
2002 | - [注 5] | セリエA 5位 | ベスト4 | - | - | - | スーペルカンピオナート・パウリスタ[注 1] 優勝[注 5] |
2003 | セリエA1 準優勝 | セリエA 3位 | ベスト8 | - | ベスト4 | - | |
2004 | セリエA1 5位 | セリエA 3位 | - | ベスト4 | ベスト16 | - | |
2005 | セリエA1 優勝 | セリエA 11位 | - | 優勝 | 第1フェーズ敗退 | 優勝 | |
2006 | セリエA1 準優勝 | セリエA 優勝 | - | 準優勝 | - | - | |
2007 | セリエA1 3位 | セリエA 優勝 | - | ベスト16 | ベスト8 | - | |
2008 | セリエA1 3位 | セリエA 優勝 | - | ベスト8 | 第2フェーズ敗退 | - | |
2009 | セリエA1 4位 | セリエA 3位 | - | ベスト8 | - | - | |
2010 | セリエA1 4位 | セリエA 9位 | - | ベスト4 | - | - | |
2011 | セリエA1 4位 | セリエA 6位 | ベスト8 | - | ベスト16 | - | |
2012 | セリエA1 3位 | セリエA 4位 | ベスト4 | - | 優勝 | - | |
2013 | セリエA1 3位 | セリエA 9位 | - | ベスト16 | ベスト4 | - | |
2014 | セリエA1 6位 | セリエA 準優勝 | 第3フェーズ敗退 | - | ベスト4 | - | |
2015 | セリエA1 4位 | セリエA 4位 | ベスト4 | ベスト16 | - | - | |
2016 | セリエA1 8位 | セリエA 10位 | ベスト16 | ベスト4 | - | - | |
2017 | セリエA1 4位 | セリエA 13位 | 第4フェーズ敗退 | - | 第1フェーズ敗退 | - | |
2018 | セリエA1 3位 | セリエA 5位 | 第4フェーズ敗退 | - | 第2フェーズ敗退 | - | |
2019 | セリエA1 準優勝 | セリエA 6位 | ベスト16 | 第2フェーズ敗退 | - | - | |
2020 | セリエA1 6位 | セリエA 4位 | ベスト4 | グループリーグ敗退 | 第2フェーズ敗退 | - | |
2021 | セリエA1 優勝 | セリエA 13位 | ベスト8 | ベスト8 | - | - | |
2022 | セリエA1 準優勝 | セリエA 9位 | ベスト4 | - | 準優勝 | - |
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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※括弧内の国旗はその他の保有国籍を示す。
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