ジョゼ・カルロス・セホーン

ブラジルのサッカー選手、監督 ウィキペディアから

ジョゼ・カルロス・セホーン(José Carlos Serrão、1950年10月12日 - )は、ブラジルサンパウロ州サンパウロ出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードミッドフィールダー

概要 ジョゼ・カルロス・セホーン, 名前 ...
ジョゼ・カルロス・セホーン
名前
本名 ジョゼ・カルロス・セホーン
José Carlos Serrão
愛称 ゼ・カルロス (Zé Carlos)
ラテン文字 SERRÃO
基本情報
国籍 ブラジル
生年月日 (1950-10-12) 1950年10月12日(74歳)
出身地 サンパウロ
選手情報
ポジション FWMF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1969-1977 サンパウロFC
1977 ボタフォゴ-PB
1978 ジョインヴィレEC
1979 ECサント・アンドレ
1979 AAアナポリナ
1980 ククタ・デポルティーボFC
監督歴
1983 サンパウロFC (暫定)
1986 サンパウロFC (代行)
1986 サンパウロFC (暫定)
1987 サンパウロFC (暫定)
1987 キンゼ・デ・ピラシカーバ
1988-1989 ECサント・アンドレ
1990-1991 AAフランカーナ
1991 リオ・ブランコ・ジ・アンドラダスFCポルトガル語版
1992 キンゼ・デ・ピラシカーバ
1992 セントラルSC
1993 マリーリアAC
1994 CAジュベントス
1994 CRB
1995 パイサンドゥSC
1995 ロンドリーナEC
1995 モジミリンEC
1996-1997 AAフランカーナ
1997 AEアラサトゥバ
1998 リオ・ブランコ・ジ・アンドラダスFC
1999 モジミリンEC
2000 SCコリンチャンス・パウリスタ (U-20)
2000 SCコリンチャンス・パウリスタ (代行)
2000 セアラーSC
2001 ポルトゥゲーザ・サンチスタ
2005 グアラニFC
2005 ウニオン・アグリーコラ・バルバレンセFC
2005-2006 MKSポゴニ・シュチェチン
2007 モジミリンEC
2008 リオ・プレトEC
2008 AAアナポリナ
2009 セルトンジーニョFC
2010-2011 ECサンベント
2011 アメリカ-SP
2011 セントラルSC
2011 SEイタピレンセポルトガル語版
2012 ガンバ大阪
2012 ADRCイカザ
2013 サンカルロスFC
1. 国内リーグ戦に限る。
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選手時代の登録名はゼ・カルロス (Zé Carlos)[2][3]であった。

経歴

要約
視点

選手時代

選手時代はウイング[4] または左ミッドフィールダー[4]、攻撃的ミッドフィールダー[2]としてプレー。

1965年、15歳からサンパウロFCで育ち[2]、1969年から1977年までプロ選手として所属した[2]。1971年にはキンゼ・デ・ピラシカーバでもプレーした[4]。1972年2月9日にサンパウロFCで初めて試合に出場し[5]、通算261試合出場28得点[4](または267試合30得点[5])。うち全国選手権では84試合出場8得点[3]コパ・リベルタドーレスでは16試合3得点[6]1974年コパ・リベルタドーレス決勝のインデペンディエンテとの第3戦では、後半27分にPKを任されたが失敗、チームは準優勝に終わった[2][4][7]。1975年にはサンパウロ州選手権に優勝し、そのチームでセホーンはペドロ・ローシャムリシ・ラマーリョセルジーニョ・シュラッパとともに攻撃陣を形成した[2]

1977年にサンパウロを離れ、1977年にボタフォゴ-PBパライバ州選手権、1978年にジョインヴィレサンタカタリーナ州選手権に優勝した[2]。怪我もあり、1980年のコロンビアのククタでのプレーを最後に30歳で引退した[2]

サンパウロ州選抜として6試合に出場し[8]、1974年にはマリオ・ザガロ監督によってワールドカップ・西ドイツ大会ブラジル代表候補に選出されるも、怪我の為に本大会出場は叶わなかった[9]

指導者として

引退後、古巣のサンパウロFCにコーチングスタッフとして加わり、1983年、1986年、1987年に暫定監督、1986年に監督代行を務めた[10][11]。サンパウロが9年ぶりに優勝した1986年のブラジル全国選手権では、セホーンは暫定監督として序盤3試合で指揮を執った[12]

1998年、リオ・ブランコ-MGポルトガル語版を率いてミナスジェライス州選手権モドゥーロII(2部)に優勝して昇格に導いた[13][14]

コリンチャンスの育成部門で指導にあたっていた2000年には、オズワルド・オリヴェイラに代わってコパ・ド・ブラジルでトップチームの監督代行を1試合務めた[1]

2009年、セルトンジーニョを率いてサンパウロ州選手権セリエA-2(2部)からセリエA-1(1部)へ昇格[15][16]

ポーランドのMKSポゴニ・シュチェチンでは、同国リーグにおける最初のブラジル人監督となった[17]

2011年12月26日、2012年シーズンからのJリーグガンバ大阪監督就任がクラブより発表された[18]。当初、G大阪は元日本代表呂比須ワグナーを新監督に迎えようとしたが、呂比須がJリーグの指導者資格の要件を満たさないため、呂比須の推薦によりセホーンが監督に就いた[9]。呂比須はセホーンがサンパウロのU-17監督だったころの教え子であり、彼をトップチームに推薦したのがセホーンだった[9]。招聘したG大阪強化本部長の山本浩靖が2人の立場について「あくまでもセホーンがクラブのトップ。呂比須との二頭体制には成りえない」[19]と主張したが、実際に指揮を執ったのは呂比須だった[20][21]。セホーンは、「呂比須から意見を聞かれたら、自分の考えを伝えた。ただし、最終判断を下すのは彼。私の重要な任務のひとつは、“監督”としてメディア対応をすることだった。ただ、戦術や選手交代を自分で決めたわけではないから、質問によっては答えようがないこともあった」と振り返る[9]

セホーンの談話によれば、選手補強やブラジル人のコーチングスタッフの選定についても呂比須が主導したという[9]。開幕からJ1リーグAFCチャンピオンズリーグあわせて公式戦5連敗を喫し、3月26日にセホーン、呂比須ともに解任が発表された[22]

2016年、セルトンジーニョでサンパウロ州選手権セリエA-3(3部)に優勝して昇格を決めた[13]

所属クラブ

指導歴

※ 特筆なき限り、役職は監督

タイトル

クラブ

サンパウロ
ボタフォゴ-PB
ジョインヴィレEC

指導者時代

サンパウロ
リオ・ブランコ-MG

注釈

  1. ガンバ大阪によるプレスリリースなどでは水原三星となっているが、セホーンによれば「2000年末から2003年末まで韓国で働いたのは事実だが、サンパウロが現地に開設した少年チームで指導していたんだ。(Kリーグの)水原三星とは関係ない」[9]

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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