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カザフスタンの男子サッカーナショナルチーム ウィキペディアから
サッカーカザフスタン代表(サッカーカザフスタンだいひょう、カザフ語: Қазақстан Ұлттық футбол құрамасыӨңдеу)は、カザフスタンサッカー連盟(KFF)によって構成される、カザフスタンのサッカーのナショナルチームである。本拠地は首都・アスタナにあるアスタナ・アリーナ。
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国または地域 | カザフスタン | |||
協会 | カザフスタンサッカー連盟 | |||
愛称 | Қаршығалар (The Hawks) | |||
監督 | マゴメド・アディエフ | |||
キャプテン | アスハト・タギベルゲン | |||
最多出場選手 | サマト・スマコフ(76試合) | |||
最多得点選手 | ルスラン・バルティエフ(13得点) | |||
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初の国際試合 | ||||
カザフスタン 1 - 0 トルクメニスタン (アルマトイ, 1992年6月1日) | ||||
最大差勝利試合 | ||||
パキスタン 0 - 7 カザフスタン (ラホール, 1997年6月11日) | ||||
最大差敗戦試合 | ||||
フランス 8 - 0 カザフスタン (パリ, 2021年11月13日) | ||||
FIFAワールドカップ | ||||
出場回数 | 0回 | |||
UEFA欧州選手権 | ||||
出場回数 | 0回 | |||
1992年のソビエト連邦の崩壊に伴い、カザフスタンサッカー連盟は1994年に他の中央アジア4か国と共にアジアサッカー連盟(AFC)に加入した。ところが、カザフスタン代表は選手やファンの反対(UEFA加盟を希望)を押し切って加入したAFCでもワールドカップに出場できなかった為、選手やファンの不満が募った。以後2001年にAFCを脱退し、2002年4月にUEFAに転籍した。
FIFAワールドカップ、UEFA欧州選手権及びAFCアジアカップといずれも本大会出場歴はない。
1991年12月16日、カザフスタンがソビエト連邦からの独立を宣言。それに伴いソビエト連邦代表(UEFA所属)からカザフスタン代表が分離しAFCに加盟した。
カザフスタンの初の国際試合は1992年6月1日に開催されたトルクメニスタン戦で、1-0で勝利した。 他にも同じく中央アジアのウズベキスタン、キルギス、タジキスタンやリビアとの対戦機会もあった[1]。
FIFAワールドカップへの初挑戦は1998年大会の予選であった。そのアジア1次予選では、前回大会予選で最終予選まで進んだイラク、パキスタンと同組になった。ホーム・アンド・アウェー方式の4試合を全勝し、初挑戦で最終予選に進出。最終予選では、韓国、日本、UAE、ウズベキスタンが入る組に振り分けられた。計8試合に臨んだが勝利はホームでのUAE戦(3-0)のみに留まり、本大会出場には至らなかった。1997年10月4日に行われたホームでの日本戦では後半ロスタイムに同点に追いつく健闘を見せた[2]。
2002 FIFAワールドカップ・アジア予選では、1次予選でイラクに競り負け、最終予選に進めなかった。
カザフスタンは大陸横断国であるため、2002年、カザフスタンサッカー連盟はUEFA(欧州サッカー連盟)に移籍した。正式な移籍は6月30日に行われたため、1月25日に抽選会が開かれた欧州選手権2004年大会の予選には参加できず、前述の通り2002年のワールドカップ予選はアジア予選に参加した。転籍以来、欧州では弱小国という立場に置かれている。
初参加となった2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では、アンドラ、ルクセンブルク[3]、トルコ、デンマーク、欧州選手権2004年大会優勝のギリシャ、ウクライナ、ジョージア、アルバニアと同組になった[4]。
UEFAでの初公式戦は欧州予選、2004年9月8日のウクライナ戦で、1-2での敗戦であった。その後も全く勝てず、翌年10月8日にジョージアに引き分けるまで10連敗を喫した。最終戦のデンマーク戦も1-2で敗れ、最終的に0勝1分11敗、勝ち点僅か1という惨敗であった[5]。
UEFA EURO 2008予選ではベルギー、アゼルバイジャンにそれぞれ引き分ける好スタートを切り、3連敗の後セルビアに2-1のスコアで勝利。これがカザフスタン代表のUEFAにおける公式戦初勝利となった。同予選ではフィンランドにも勝ち、最終的に2勝4分8敗・勝ち点10、8カ国中6位でのフィニッシュとなった[6]。
2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではグループ6(クロアチア・イングランド・ベラルーシ・アンドラ)に入った[7]。この予選でも初戦となった2008年8月20日の対アンドラ戦を3-0で勝利する好スタートを切ったが[8]、その後はアンドラから挙げた2勝以外は全敗という結果でグループ5位に終わった(首位が本大会出場、2位は条件次第)[9]。
位 | 選手 | 試合数 | 得点数 | 期間 |
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1 | サマト・スマコフ | 76 | 2 | 2000-2017 |
2 | ルスラン・バルティエフ | 73 | 13 | 1997-2009 |
3 | セルヒー・マリー | 65 | 1 | 2014- |
4 | イスラムベク・クアト | 58 | 6 | 2015- |
ユーリー・ログヴィネンコ | 5 | 2008-2022 | ||
ヌルボル・ジュマスカリエフ | 7 | 2001-2014 | ||
7 | アンドレイ・カルポヴィチ | 55 | 3 | 2001-2014 |
8 | セルゲイ・ヒジニチェンコ | 52 | 8 | 2009-2020 |
9 | バウイルジャン・イスラムハン | 50 | 3 | 2012- |
10 | ドミートリー・ショムコ | 48 | 2 | 2011- |
アスハト・タギベルゲン | 2 | 2014- |
位 | 選手 | 得点数 | 試合数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | ルスラン・バルティエフ | 13 | 73 | 1997-2009 |
2 | ヴィクトル・ズバレフ | 12 | 18 | 1997-2002 |
バフティヤール・ザイヌトディノフ | 32 | 2018- | ||
4 | アバト・アイムベトフ | 8 | 31 | 2019- |
ドミートリー・ビャコフ | 33 | 2000-2008 | ||
セルゲイ・ヒジニチェンコ | 52 | 2009-2020 | ||
7 | ヌルボル・ジュマスカリエフ | 7 | 58 | 2001-2014 |
8 | イーゴル・アフデエフ | 6 | 27 | 1996-2005 |
オレグ・リトヴィネンコ | 28 | 1996-2006 | ||
セルゲイ・オスタペンコ | 42 | 2007-2014 | ||
イスラムベク・クアト | 58 | 2015- |
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