クレムリン
ロシアのモスクワにある宮殿、城塞 ウィキペディアから
ロシアのモスクワにある宮殿、城塞 ウィキペディアから
クレムリン(露:Кремль、Kreml')は、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。「Kremlin」は、英語やフランス語などでの表記。
ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が設置されたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。
現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が設置されているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。正面には、赤の広場がある。
ロシア語では「クレムリ」となり、「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語において単に「クレムリン」と言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なもので、城壁の総延長は2.25kmある。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。
モスクワのクレムリンの原型となる城塞は12世紀に築かれたと考えられている。クレムリンが築かれた場所はモスクワ川とネグリンナヤ川(現在は地下河川となっている)の合流点に面した河岸段丘に建つ、天然の要害であった。1366年、第4代モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイにより、石造りの城塞として再建された。
15世紀後半、イヴァン3世(イヴァン大帝)の治世に、ロドルフォ・ディ・フィオラバンディやマルコ・ルフィーらイタリア人建築家により、進んだ築城術が導入され、ルネサンス風に全面改築がなされた。この時期には、代々のツァーリ(ロシア皇帝)が戴冠式を行うことで知られるウスペンスキー大聖堂(1479年再建)、ブラゴヴェシチェンスキー大聖堂(1489年建立)、ツァーリの納骨堂のあるアルハンゲリスキー聖堂(1508年建立)の三大聖堂や、イヴァン大帝の鐘楼(1508年建立)が建立され、現在とほぼ同じ外観を持つに至った。
17世紀には城門にゴシック風の塔が加えられ、娯楽宮、モスクワ総司教館が新築された。しかし、1712年にピョートル1世がサンクトペテルブルクに遷都すると、クレムリンの増改築は停滞した。
1812年、ナポレオン・ボナパルトによるモスクワ占領の際にはクレムリンの一部が破壊されたが、その後修復された。さらに、コンスタンチン・トーンらによって大クレムリン大宮殿(1849年建立)や武器宮殿(1851年建立)が新たに造られた。
1917年のロシア革命以降はソビエト政府の中心となった。なお、モスクワ放送では、宮殿で鳴らされる鐘の音を流していた。
2023年5月3日、ウラジーミル・プーチン大統領の暗殺[1]を狙った攻撃型のドローンがクレムリンに侵入[2][3]。ロシア軍のレーダーにより撃墜されたものの、一部のクレムリンの屋根が炎上した[4][5]。
その後、ロシア政府はウクライナ軍の攻撃と断定したものの、ウクライナ側は関与を否定した[6][4][7]。
2022年2月24日以降、ロシアはウクライナに軍事侵攻を行っており、侵攻後、ロシアは各地で謎の火災や攻撃が頻繁していた。クレムリン攻撃前日にもロシア領内が攻撃される事件が頻発していた。
モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧様々の宮殿(パラーダ)、聖堂建築、20の塔(バーシニャ)がある。
モスクワ川沿いの河岸段丘には、クレムリン大宮殿(ボリショイ・クレムリョフスキー・ドヴォレッツ)を中心に、グラノヴィータヤ宮殿、テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)が林立し、これに、クレムリン大会宮殿(ドヴォレッツ・スエズドフ)や聖堂群が周囲に立てられ一つの建築複合体を形成している。この敷地の東隣はタイニツキー庭園となっている。
クレムリン大宮殿の東側には、ロシア正教会の伽藍が林立する広場があり、大聖堂広場(寺院広場、ソーボルナヤ・プロシチャージ)の名で呼ばれる。
この他、大聖堂広場やクレムリン大宮殿には、総主教宮殿、ヴェルホスパスキー聖堂(祭服教会)、テレムノイ宮殿付属教会、リゾポロジェーニエ教会、十二使徒教会、ラザーリ教会がある。
クレムリンを囲繞する20の尖塔。1937年のロシア革命20周年を記念して、トロイツカヤ塔、ホロヴィツカヤ塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔、スパスカヤ塔、ニコリスカヤ塔の先端には、ルビーガラスで作られた直径3メートルになる赤い星(クレムリンの赤い星)が輝く。
アレクサンドロフスキー庭園(Александровский сад)は、クレムリンの北西部に沿って伸びるモスクワ最古の公立公園。
1812年ロシア戦役でモスクワがナポレオンの大陸軍に占領された際、モスクワ市街は数日間にわたる大火で全焼した。大陸軍の退却後、皇帝アレクサンドル1世はモスクワ再建を開始したが、クレムリンの下を流れるネグリンナヤ川の汚染がかねてから激しかったことから地下水路化することにし、川の跡地に庭園を造らせることにした。これがアレクサンドロフスキー庭園である。設計はオシップ・ボーヴェ。1819年から建設が始まり、1823年に完成した。
庭園は、北から上・中・下の庭園に分かれている。クレムリン北端の革命広場に面したウグロヴァーヤ・アルセナーリャ塔からトロイツカヤ塔までの間は「上の庭園」で、1967年に大祖国戦争の戦死者のために築かれた「無名戦士の墓」、イタリア風の洞窟(グロット)、マネージ広場との間にある噴水、ロマノフ王朝300周年を記念して建てられたオベリスク、モスクワ総主教ゲルモゲンの記念碑、薔薇園などがある。トロイツカヤ塔からボロヴィツカヤ塔までの間は「中の庭園」で、トロイツカヤ塔からクレムリンへの入場券売り場や、アレクサンドル1世記念碑が立つ、木立に囲まれた公園である。ボロヴィツカヤ塔からクレムリン南端のモスクワ川に面したヴォドヴズヴォドナヤ塔までの短い区間は「下の庭園」で、遊歩道のない森だけがある。
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
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