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日本の映画 ウィキペディアから
『さらばラバウル』は、1954年(昭和29年)2月10日に公開された日本の戦争映画[5]。製作、配給は東宝[2]。モノクロ、スタンダード[1]。監督は本多猪四郎。脚本は橋本忍・馬淵薫・西島大。特殊技術は円谷英二。
太平洋戦争でのラバウル戦線を題材とした映画[6]。本多猪四郎と円谷英二が、前年の『太平洋の鷲』に続いてコンビを組んだ作品である。
題名は、戦時中の流行歌「ラバウル小唄」の歌詞から取られている[7]。
本多によれば、戦時中の男女の恋愛を中心としており、戦争に巻き込まれた民衆の生き様を描き、戦争の罪悪を問うことをテーマとしているほか、当時はまだ駐留軍が居て大っぴらには語り合えないものの、戦時中を懐古する風潮があったと述べている[7]。
この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 |
昭和19年、ラバウルにいる海軍基地航空隊の零戦乗りの若林大尉は撃墜の多さと同時に、部下に厳しいことで鬼隊長の異名をとっていた。出撃のたびに損耗が多く、特に「イエロースネーク」と呼ばれる敵機に、味方機は次々と落とされていった。
※以下ノンクレジット出演者
円谷英二による特撮は『太平洋の鷲』よりも技術が進み、操演や合成が多用された[6][8][2]。監督の本多猪四郎は、飛行場爆撃シーンでの人物合成や零戦不時着シーンでの本編映像と息のあったミニチュア特撮などを高く評価している[7]。プロデューサーの田中友幸は本作品の出来によって特撮映画に手応えを感じ、同年のうちに本多や円谷とともに『ゴジラ』を手掛けるなど、特撮映画の制作を重視するようになっていった[9][10]。造形助手の開米栄三は、寒天で作られた海のセットが好評であったと証言している[11][12]。
一方で、特殊技術撮影の有川貞昌によれば、円谷は苦労して撮影したカットが入っていなかったことを本多に意見していたといい、本作品の時点では映画業界全体で特撮の重要性が認識されておらず、円谷は悔しがっていたという[13]。開米は、本作品の特撮セットはスタジオの隅に作られた6畳程度であり、大きいスタジオが使えるようになったのは『ゴジラ』以降であったと証言している[11]。
ラバウルの街並みは、オープンセットが組まれた[3]。オープンセットでの夜間の爆撃シーンの撮影では、火薬の爆発音があまりにも大きかったため、撮影所の近隣住民からの苦情が殺到したという[6][8]。
江ノ島ロケでは零戦の実物大造形物が用いられたが、撮影初日にこれを実物と誤認した在日米軍のヘリコプターが偵察に訪れるという一幕もあった[7]。本多は、米軍も錯覚する美術の出来栄えを高く評価していた[7]。田中によれば、この造形物はジュラルミン製で、当時の金額で100万円かかったという[14]。実物大造形物は、空戦シーンのスクリーン・プロセスによる撮影でも用いられた[3]。
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2001年公開の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(監督:金子修介)では、作中世界における1954年のゴジラ出現シーンに本作品のポスターが登場している[16]。このポスターは、東宝の宣伝部が保管していた本作品のマイクロフィルムから起こしたものである[17]。
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