鶴山公園
岡山県津山市にある歴史公園 ウィキペディアから
岡山県津山市にある歴史公園 ウィキペディアから
鶴山公園(かくざんこうえん)は、岡山県津山市にある歴史公園である。明治の廃城令で民間に払い下げられていた津山城の中心部を当時の津山町が町有とし、1900年(明治33年)に鶴山公園として公開した[1]。津山城址鶴山公園ともいう。古地名としては「つるやま」だが、城の通称、および公園名は「かくざん」である。
鶴山公園 | |
---|---|
桜の季節の備中櫓 | |
所在地 | |
座標 | 北緯35度3分41.5秒 東経134度0分20.2秒 |
面積 | 8.5ヘクタール |
前身 | 津山城 |
運営者 | 津山市 |
公式サイト | 津山市観光協会公式サイト つやま小旅 |
平山城だった旧津山城の主要部分を整備した公園で、石垣の連なりは地上から45mに及ぶ。公園化後に植えられた約1000本のサクラが花開く季節には「津山さくらまつり」が催され、夜間ライトアップもされる。日本さくら名所100選にも選ばれ、西日本有数のサクラの名所として知られる[2][3]。
津山城跡を整備し1900年(明治33年)以降、鶴山公園として開放、1963年(昭和38年)9月28日、国の文化財保護法による史跡に指定された。天守閣などは1874年(明治7年)の売却後、直ちに取り壊されたが、本丸・二の丸・三の丸の石垣はほぼ完全な形で残り、当時の面影を伝えている[6]。
1873年(明治6年)の廃城令以降、桑畑と雑草の広がる荒地となっていた。1890年(明治23年)本丸西北にある腰巻櫓の石垣が崩落したことをうけ、津山城跡保存の機運が高まり、1891年(明治24年)には鶴山城址保存会が設立された。城内は国有地、県有地、私有地が混在し、同保存会は官有地拝借による保存を模索したが、許可を得ることができず、公園整備には至らなかった。津山町は用地問題の解決に向け土地の取得を続けるとともに、1899年(明治32年)には県有地が無償で払い下げられる。1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけて残る一部の私有地についても取得が完了し、1900年(明治33年)春、津山町の管理のもと、鶴山公園が開園した。
鶴山公園の開園を機に、整備のあり方を検討する公園委員が津山町議会に組織され、1902年(明治35年)には牡丹桜と染井吉野などが試験的に植樹された。
その後、日露戦争の帰還兵が苗を寄付したことを契機として植樹が進み、1915年(大正4年)と1928年(昭和3年)の二度の御大典記念植樹で約2,000本の桜が植樹され、全山が桜で覆われるようになった。これらの植樹にあたっては、1905年(明治38年)に津山町議会に初当選を果たした福井純一が私財を投じるとともに寄付集めを行い、その中心的な役割を担った[7]。
本丸御殿の南に位置し、その名は森忠政の娘婿である池田備中守長幸に由来すると伝えられている。
鶴山公園内
津山文化センター前(鶴山公園の北西に隣接)
1765年(明和2年)には五代藩主松平康哉の時代に津山藩藩校として学問所が設けられた[13]。1870年(明治3年)には学問所から修道館に改称し、1871年(明治4年)の廃藩によって廃校となった[13]。
その後は北条県立中学校の校舎、共立小学校の校舎、区務所、郡役所、幼稚園、私立学校、町立高等小学校、県立中学校、県立女学校などさまざまな組織がこの建物を使用したが、1904年(明治37年)に鶴山公園内に移築され、「鶴山館(かくざんかん)」と名付けられた[14]。
1873年(明治6年)の廃城令により、城は撤去され、跡地は公売された。本丸や二の丸、三の丸跡には桑や茶が植えられ、この事態に遭遇した旧藩士たちが、この地が城であったことを後世に伝えるために、1877年(明治10年)本丸跡に「鶴山城址碑」を建立した[15]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.