讃岐山脈
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高さ800 mほどの山が連なり、東西方向に長く、南北方向には狭いため、急峻な山脈である。香川県側の斜面に比べて徳島県側の方が直下に吉野川が流れているため急である。主に和泉層群と呼ばれる地層からできている。アンモナイトなどの化石が観察できることから、古くは海であったと考えられる。
山を東側より記す。小数点以下が記載された座標は最高点に位置する三角点の座標[1]。三角点の等級は本来漢数字であるが、再配列可能な表のためアラビア数字で表記している。
借耕牛(かりこうし)とは、田を耕す田起こしおよび代掻きの時期において、犂を引くための家畜を飼育することができない小規模農家が、農繁期のみ山間の畜農家から借りていた農耕牛のこと。
江戸時代中期から昭和時代中期[注釈 1]まで、香川県(讃岐国)平野部の米作農家と徳島県(阿波国)山間部の畜農家との間で行われていた相互扶助に近い農業経営上の取引活動とされる。カリコと略されることもあり、これを取りまとめる役目を追う仲介業を兼務する農家や、貸与元の農家の事を「かりこさん」と称していた土地もある。讃岐の農繁期が終わると、米などの穀類をお礼につけて返していた。そのため阿波では米取り牛と呼ばれた。
水田にできる平野部が多い讃岐では米作のための耕作は欠かせなかったが、讃岐には草地が少なく牛の飼育が困難であった。讃岐では広大な土地を有する実力者でなければ年間を通した牛馬などの大型家畜類の飼育は不可能であった。
一方、阿波の山間部(北西部の美馬郡・三好郡と北東部の麻植郡など)は山地ゆえに斜面が多いため、水田に開拓できる土地が少なく、米は貴重な食糧であった。
こうした事情の一致により、讃岐の小農家の大半にとっては牛を飼わずに済み、阿波の山間農家にとっては少ない食糧を農繁期後の牛の労働で補える、この取引が発生したとされる。
借耕牛は農機具が普及し始めた昭和30年代まで続いたとされる。のちに米作農業はトラクターに代表される農業機械の登場に取って代わられ、畜産も作用業家畜ではなく食肉用家畜への生産へとシフトしていったため、時代の趨勢とともに、この風習は徐々に廃れていったとされる[注釈 1]。
春季の田起こしに間に合わせるため、場所によっては借耕牛は阿波の畜農家(派遣元)で山越えできるまでに育てられ冬のうちに出発し、過酷な峠の雪道を讃岐平野へと超えねばならなかった。その道のりは決して平易なものではなく、借耕牛のみならず、それを連れて移動する「かりこさん」共々に常に遭難事故との危険とも隣り合わせであったとされる。のみならず農耕の戦力として期待された牛であったがゆえに特に脚部の怪我(骨折)は禁忌であり、致命傷でもあった。移動中の雪山において不慮の事故で骨折した牛は、足手まといとして谷に落とされ安楽死を与えられる事もあったとされる。
雪深い山道を抜けて派遣元の農家に到着した後も休まることはない。大抵は過酷な冬山を越えたと同時に春の訪れとなるため、借耕牛は(また力弱い仔牛であった時は成長を待つ場合もあるが)時を置かずして作業に入るのが通例と化していた。牛を長く置けば、その期間だけ派遣先の農家の負担も大きくなる一方、派遣元の農家も一刻も早い米の到着を待っているため、派遣先の米作農家は速やかな農作業と多い収穫を要求された。結果、借耕牛にかかる負担は大きくなり、時に米を収穫し終えた際には牛の疲労は筆舌に尽くしがたいものとなる場合もあったとされる。
米の収穫を終えると牛は再び「かりこさん」と共に阿波の派遣元農家へと帰還する。しかし派遣先での重労働や秋が深まり冬口となった気候により、時に雪期が早まった時などは、借耕牛は往時以上の消耗を抱えながら険しい峠道を超えねばならなかった。当然、この帰還時の旅程も決して楽なものではなく、往時と同様の危険がつきまとった。
そして無事に阿波へと戻ってきた牛は、派遣元にて英気を養い、再び讃岐山脈を越えるのである。
このように過酷であった借耕牛の労務だが、派遣元も派遣先も決して牛に対して情を抱いていなかったわけではない。過酷な労務はあくまでも当時の農業経営上においてやむなく行われていたもので、時期に余裕がある際には当然、牛を休ませることも行い、別れの際には涙と共に牛に感謝のため拝む事が通例となっていた土地もあった。また、地域によっては阿波へと帰っていく借耕牛に塩漬け等の旅中における防腐処置を施した瀬戸内海の海産物(これも山間部では貴重品である)を米と一緒に感謝をこめて派遣元へと託したという逸話も存在する[2]。
こうした借耕牛の労や犠牲に報いるため、時に讃岐山脈および讃岐国内の峠道(主には国境や村境)には「牛の墓」と呼ばれ記される石碑が散見される。これは借耕牛のみならず、峠を往来する運搬に使われた流通牛も併せての弔いと感謝を示した塚であり、地元地域にとっても大事な信仰の対象となっている場合も多い。ちなみに「墓」とあるが実質上は人間の営みの犠牲となった牛たちの合祀を目的とした「塚」であるため、実際にその場に何らかの牛が弔われている、というケースは非常に稀である。
牛の受け渡しの時期には峠の集合場付近が派遣先と派遣元、両地の農家で賑わい、飲食店も栄えた。
借耕牛で両国の交流が盛んになるにつれて、阿波から讃岐への嫁入りも増加したと言われる。これは牛を育てた派遣元の畜農家の娘が、自家の牛の面倒を見るために「かりこさん」として自家の牛育のノウハウを派遣先やその近所に伝える事、また雪深くなる前に自身の実家へと米を持ち帰る事を目的として迅速な作業を心がけた事より「阿波の娘は働き者」として派遣先の米作農家に気に入られた事情がある。
古くは12の峠が両国を結んだ。
阿讃山脈(あさんさんみゃく)は、讃岐山脈の徳島県における呼称である。
阿波国と讃岐国の境に続く山脈である事からこの名称で呼ばれており、讃岐山脈という名称よりもむしろこちらの名称の方が体を表しているといえる。徳島県では「讃岐山脈」がまるで香川県だけに山脈が位置しているかの様な名称である事から、あえて観光客向けのガイドなどでもマイナーな「阿讃山脈」の名称を使用している例が目立つ。 また、香川県においても「阿讃山脈」と呼ぶ人も少なからずいる(特に60歳代以上の人に見られる)。
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