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邪馬台国が九州にあったとする学説 ウィキペディアから
本項では、邪馬台国の所在地に関する学説のうち、九州地方邪馬台国九州説(やまたいこくきゅうしゅうせつ)を概説する。
新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 1]。
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の御井郡、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群、熊本県の球磨郡など諸説が乱立している。
邪馬台国九州説の基本論拠は以下のものが挙げられる。
九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
はやくから[いつ?]薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し[要出典]、その後の九州論者はほとんどこの説に追随、またはこれに近い説を表明している[要出典]。
三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もある[要出典]。しかし、様式論からは呉の作ではなく、少なくとも銘文にある徐州は呉の領域ではない[要出典][注釈 7]。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか理解が難しい[要出典]。また、九州説論者[誰?]の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとする[要出典]が、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かない[要出典]。2世紀のものは量も少ない上、畿内でも少数は出土している[要出典]。ただし畿内と北九州を別勢力と見た場合、優位性だけで位置を断定できない[要出典]。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの
距離問題については「短里」の概念が提示されている[要出典]。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説(周髀算経・一寸千里法)である[要出典]。魏志倭人伝では狗邪韓国から対海国(対馬)までが千里、対海国から一大国(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている[要出典]。この短里という概念で計測すると、実際に、帯方郡から狗邪韓国までの距離が魏志倭人伝の記載通り、七千餘里となる。九州説を唱える多くの者は、この短里説を基本論拠としている[要出典]。またこの短里を採用した場合、径百歩の卑弥呼の冢は直径約30m程になり、卑弥呼の冢を箸墓古墳とする説への反論となっている[要出典]。
古くから支持されており[要出典]、人口が多く「ヤマト」の地名に関係しそうな山本郡とする説[要出典]。
御井郡域である久留米説を邪馬台国とする説[要出典]。久留米市にある祇園山古墳を卑弥呼の塚とする説もある[1]。
豊後国風土記には景行天皇が豊国の日田郡(福岡県八女市の隣接地域)を訪れたとき、人に姿を変えた比佐津媛(ひさつひめ)という女神と話をしたという逸話があり、この姫が卑弥呼であるという説がある[要出典]。
奴国があったと考えられる福岡平野に、これに隣接するように邪馬台国もあったとする説[要出典]。具体的には様々な説に分かれる[要出典]。伊都国や奴国から放射説行程とする説もある[要出典]。
経路などはともかく、八幡宮の総本宮である宇佐神宮周辺を邪馬台国と見る説[要出典]。この地には神武東征時に神武天皇へ協力した宇佐氏(宇佐国造)が存在する[要出典]。
現在の行橋市や刈田町のあたりとする説[要出典]。
神武東征を史実とするかはともかく、記紀などの国内資料に基づく研究では、九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説がある。東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても多くの説がある。
白鳥庫吉、和辻哲郎[3] が戦前では有名である[要出典]が、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され発展し続けた[要出典]。
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした[4]。また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)[要出典]。
記紀の神武東征を実際の歴史の神話化と見るのは上記説と一部被るが、北東アジア史を通して国家の危機でもない限り、国が丸ごと移動する例は他になく、氏族の動向や地理・科学的な面からも国家規模の東遷はありえず、神武天皇とそれに伴う少数者の東征と見る説[要出典]。上記説の弱点である東征理由も、北東アジア史においてままある諸王が新天地を求めた結果としている[要出典]。
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