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漢代には、過所を「傅」や「棨」(啓)、「繻」とも称した。漢代や晋代の過所は、中央アジアや敦煌で発見された木簡中に見つかっている。
唐代では、唐令が完全には伝わらないため、その遺文は伝存していないが、日本の令の中に規定されているので、それによって、唐令も類推される。但し、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)には、入唐僧である智証大師円珍が使用した過所が2通伝来しており、国宝に指定されているので、唐の過所の実例を見ることが出来る。それは、大中9年(855年)に尚書省と越州都督府とが交付したものであることが判る。また、その形式と内容は、日本令(公式令)に規定されるものと酷似している。すなわち、
これらが、過所に記載される内容となる。
越州都督府の交付した過所には、「円珍は、越州の開元寺を出発し、洛陽・長安・五台山を巡礼し、再び開元寺に帰還する予定である。その往還の州県にある関津などで、官司に咎められないよう、交付申請を行なう」と認められており、越州都督府は、その内容を審査した上で、発給を認可した旨が記されている。また、末尾には、円珍が潼関を通行した際に、確認した関吏の官職・氏名・年月日が記されており、そこには、官吏のサインである自署(花押)が記される。実際に、今日のパスポートと同様の役割で使用されたことを示す資料である。
その他、『入唐求法巡礼行記』には、円仁が受給した過所・公験が写しとられている。また、1965年になって、敦煌莫高窟中の第122窟の前で、過所の写しが発見された。それは、僅か7行の断片ではあるが、天宝7年(748年)の紀年が見られる。さらに、1973年には、トルファンのアスターナ石窟中の509号墓から、開元20年(732年)の、ソグド商人の石染典ら一行が使用した過所の現物が発見された。
また、唐代には、過所に類した公文書として「公験」があり、宋代の後半には「公憑」や「引拠」と呼ばれた。清朝では、「路引」(旗人)や「口票」(庶民)と呼ばれる旅券が用いられた。
日本でも公式令・関市令などに規定が存在し、官民が関所を通過する際には所属する官司・本貫地のある国司・郡司に対して過所の請求を行い、往復する場合には途中の国司に往路の過所(来文)を示して請求した。関の役人(関司)は通行者から過所を呈示を受けて、その内容を記録(録白案記)した。
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