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和装の際に足に直接履く衣類 ウィキペディアから
足袋(たび)とは、和装の際に足に直接履く衣類の一種[1]。日本固有の伝統的な衣類で、足に履く一種の下着である。木綿の布でできたものが一般的。小鉤(こはぜ)と呼ばれる特有の留め具で固定する[1]。日本の伝統的な履物である草履・下駄・雪駄などを履く際に用いるため、爪先が親指と他の指の部分の2つに分かれている[1](叉割れ)。
足袋の起源は奈良時代には存在したとされるシタウズ(襪)と呼ばれるもので、富裕階級が用いた指の股の分かれていない鹿皮の一枚物から作られた外履きである単皮(タンピ)とも呼ばれた[2]。この単皮(タンピ)が足袋(たび)の語源とされている[2]。『倭名類聚抄』には多鼻(タビ)として記載がある[2]。
室町時代から安土桃山時代にかけて特に紫色の革足袋が流行し、今日の歌舞伎、舞踊、狂言の色足袋に名残がみられる[2]。
江戸時代になっても革製の足袋が多かった。革足袋の材料は正徳ごろまで外来ものが多かった。中国渡来の物を小人革と呼び、革うすく肌こまかに柔らかであった。他にシャムから来たシャム革があったが、小人革よりケバ立ちが早く厚いため、下品とされた。享保以降は国産の革が使われたが、ケバ立ちやすく質が悪かった。
それまで一般的だった革足袋は寛永16年(1639年)の鎖国令や明暦3年(1657年)の明暦の大火で次第に不足していき、それにかわって特有の臭いがなく履き心地の良い木綿足袋が男女ともに普及した[2]。その初期において木綿足袋は長崎足袋とも呼ばれていた。これは肥前国名物であったためとされ、白木綿・無地染のほかに、箔絵の足袋や、染分け足袋もあったと言う。寛永ころの足袋はうねざしにした足袋が当時の流行だったとみえる(「東海道名所記」より)。うねざしとはさらし木綿に絹糸で刺したものである。うねざしの足袋は寛文から元禄に至るまでも流行したと見え、西鶴の「一代女」にもその記述がある。当時の足袋は一般に足首の部分を覆うほど筒が長かった。元禄ごろになって、木綿足袋は勢州山田・上州高崎が名産地とされ、特に高崎産の足袋は筒短く、高崎足袋と呼ばれた。
当時の女性の内職に、足袋さしがあり、また足袋用木綿生地も別で生産されていた。アヤ織の厚い木綿地「雲斎織」などが出現した。西鶴の「一代男」には「雲斎織の袋足袋」との記述がある。袋足袋とは糸をさしてない足袋のことである。雲斎織は当時の伊達者たちに愛用されていたらしく、一般には、うねざしの木綿足袋を履いていたようだ。その他、贅沢な繻子足袋なども一部に広がった。また小紋の足袋もあったと言う。
享保になって、はじめて筒の短い足袋が一般化し、これを半靴と称した。また徳川吉宗は鷹狩りに紺足袋を履いたので、それが武家風俗に入り、やがて町人も真似することになった。当時の色調はまちまちであったが、次第に白と紺に落ち着く傾向にあった。晒の袋足袋や薄柿色の足袋はわるい好みとされ、まだ柿染めのような足袋も見られた。そのほかに薄鼠、千種染めなども見られたという。宝暦年間に夏足袋ができて以降、一年中履かれるようになったという[3]。製法も次第に精巧になり、表の生地や底の生地の耐久力も増してきた。底は雲斎や刺底によって、木綿底より強くなったが、なお破損しやすいので、信州から産出した信州裏が専用にされた。のちには江戸で作られるようになったが、なお信州裏と呼ばれた。
足袋は甲と底に分けられ、甲はさらに親指側の内甲と4本指が入る外甲に分かれている[2]。
足袋の留め具も紐、ボタン、こはぜと変化した[2]。
初期の足袋は足首部分に紐が縫い付けてあり、紐を結ぶことで脱げ落ちないように留めていた。さらに木綿製足袋の普及と同時に、紐止め式からボタン止め式へと足袋を留める方式は変化していった。
現在の足袋は「小鉤(こはぜ)」(甲馳、牙籤、甲鉤、骨板)と呼ばれる金属製の金具(ホック)を「受け糸」(または掛け糸)と呼ばれる糸のループに引っ掛けて留めるようになっているが、この方式は江戸後期から明治前期にかけて普及したものである。
皮足袋では、熊皮、鹿皮、猿皮が用いられた[2]。毛皮を使ったものは毛足袋(けたび[5]、アブケグルミ[6]、すべ[7])という。
木綿足袋は平織で白生地の足袋が一般的である[2]。一般的には表/裏/底共に綿素材が使用されるが戦後化繊の流入により綿/ポリエステル混紡生地やナイロン糸トリコット足袋などが発生してきた。素材別の足袋は綿などの織物とトリコットなどの編み物に分類される。綿等の織物で作られた足袋は大きく伸縮することが難しいのでサイズ構成もセンチ単位だが、編み物等ニット製品で作られた足袋は伸縮にゆとりがあるため、多くはS/M/L/2L/3L/4Lとサイズ表示される。
かつては文数で表記されていたが、現在はcm表記が広く用いられている。更に各メーカーに独自の幅表記がある。ほとんどの既製品は人差し指の先が親指より短くなっているが、人差し指が親指より先に出る型もメーカーによっては少数ながら生産されている。
足袋カバーは和装で訪問などを行なう際、屋外移動時に装着中の足袋を汚れから保護する目的で重ね履きする足袋型のカバーである。基本的な構造は通常の足袋と変わらないが、汚れが付きにくい素材を使用する。また足袋の汚れ防止目的で装着するため、マナーとして訪問先の座敷に上がる前に玄関先で取り外す必要があることから、短時間で簡単に脱着できるよう留め具にはコハゼを使用しない靴下状の物もある。さらに和装のまま家事を行なう際に足袋の上から重ね履きする場合もあり、活動しやすいよう底がゴムで滑り止め加工されていたり、本体に撥水加工が施された足袋カバーも存在する。
経済産業省が2010年度に行った工業統計調査によると、全国足袋類の年間出荷額は約26億円である[9]。
都道府県別に見ると、徳島県の年間出荷額は約8億円。次いで埼玉県が約5億円で、岡山県が約1億円となる。
徳島県は全体出荷額の約30%を占めており、足袋の名産地として知られている。
2004年4月に徳島県足袋工業会の足袋が、徳島県伝統的特産品に選出される[10]。
1938年時点では埼玉県で8400万足が生産されており、行田足袋として知られる埼玉県行田市が全国生産の約80%を占めていた時代もあった。行田市にある足袋の保管庫は足袋蔵と呼ばれ、「足袋蔵のまち行田」として日本遺産に認定されている。また、「行田の足袋製造用具及び製品」が国の登録有形民俗文化財となっている。
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