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西富田地区(にしとみだちく)は、徳島県徳島市の行政上の地区である。内町・新町・東富田・西富田地域(都心地域)に属する[1]。
徳島市中央部、市の中心駅徳島駅の南西方に位置し、都心地域(中心市街地)の南西部を占める。徳島市の地区の中で最も狭い。
北は新町地区、東と南は東富田地区と接している。西は眉山の麓(地区としては新町地区と八万地区)に達する。
国道438号が中央を南北に貫き、ぞれと平行な道沿いに、南北に伸びる町が並んでいる。特に国道沿いに商業地区が発達し、その西は東富田地区の秋田町まで商業地区が続いている。一方、国道沿線より西は住宅地である。さらに西の眉山山麓には寺社が並ぶ。
西縁の眉山山麓を除き、ほぼ全域が、標高数メートルの沖積平野である。
人口は徳島市による推計[2](2011年6月)。
現在の東富田地区と西富田地区は、江戸時代には富田と呼ばれ、武家町が広がっていた。なお、富田に隣接した町屋が、新町(現 新町地区)の富田町である。
西富田は武家町の中でも特殊で、さまざまな職能集団が住んだ。たとえば、鷹匠町には鷹匠(ただし実際は大道などに多かった)、幟町には御幟の者、定普請町(現 栄町)には定普請(土木工事)の者、御弓丁(現 弓町)には御弓の者(弓兵)、伊賀士丁(現 伊賀町)には伊賀役(忍者)が住んだ。これらは、町人の職能集団の町だった北隣の新町と対になっている。
富田は、明治までには名東郡富田浦町となり、1889年の徳島市制施行で徳島市の大字となった。1941年にいくつもの町に分割され、現在とほぼ同じ町割となった。
1945年の徳島大空襲では、西富田は徳島市街地で珍しく、ほとんど被害を受けなかった。ただし定普請町は全焼し、栄町として再建された。
地区内に鉄道なし。
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