衡陽の戦い
ウィキペディア フリーな encyclopedia
衡陽の戦い(こうようのたたかい、中: 衡陽保衛戰)は、日中戦争で最も長く、一つの都市をめぐり戦闘が行われた戦いである。1944年6月19日に長沙が日本軍に陥落すると、衡陽は日本軍の次の標的となった。再編成された日本第11軍は10個師団、4個旅団、11万人以上の兵員で構成され、衡陽を攻撃する任務を引き受けた。この都市は重要な鉄道の分岐点であり、衡陽空港は日本本土への爆撃作戦に従事していたアメリカ空軍のクレア・リー・シェノー大将のフライング・タイガースが利用していた。そのため、参謀総長兼陸軍大臣であった杉山元元帥は、この都市を何としても奪取するよう命じた[1]。6月22日、日本軍の第68師団と第116師団は、2日以内に都市を占領するよう命令を受け、48日間の攻防戦が始まった。
概要 衡陽の戦い, 交戦勢力 ...
衡陽の戦い | |
---|---|
戦争:第二次世界大戦 (日中戦争) | |
年月日:1944年6月22日-1944年8月8日 | |
場所:衡陽市 | |
結果:日本軍の勝利 衡陽の占領 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
横山勇 | 方先覚(英語版) |
戦力 | |
10個師団 4個旅団 約110,000人 |
中国第10軍団 約17,000人 |
損害 | |
日本側資料:死者・負傷者19,000人 中国側の資料 死者・負傷者48,000〜60,000人 |
戦死者4,700人
|
| |
閉じる