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日本の神社 ウィキペディアから
諏訪大社上社の摂社であり、いわゆる「中十三所」の筆頭。上社本宮から北へ約500m離れた位置にある。
諏訪地域に伝わる神話によると、建御名方神(諏訪明神)が諏訪に進入して国津神の洩矢神と相争ったとき、明神が藤を手にして、鉄器を持った洩矢神を降伏させた。のちに明神がこの藤を植えた(あるいは投げ捨てた)ところ、たちまち繁茂して藤の木となったという。この神話は、宝治3年(1249年)の『諏訪信重解状』「守屋山麓御垂跡事」や[1][2][3]、延文元年(1356年)の『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」などに載録されている[4][5]。
『画詞』では、この伝承が摂社藤島社の由来譚として述べられている[4][5]。
なお、嘉禎4年(1238年)の奥書を識す『諏訪上社物忌令之事』においては、「藤島大明神」の本地仏が不動明王とされる[9]。
藤島神社 | |
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藤島神社 (川岸天竜河畔諏訪明神入諏伝説の地) | |
所在地 | 長野県岡谷市川岸上1-1 |
位置 | 北緯36度03分11秒 東経138度02分03秒 |
主祭神 |
藤島明神 三宝荒神 |
創建 | 不詳 |
別名 | 藤島大明神、陵明神、十五所明神、荒神塚 |
例祭 | 3月第2日曜日 |
岡谷市川岸上三沢区(旧三沢村)、県道14号沿いにある。石室を備えた円墳(荒神塚古墳)の跡である。
諏訪地方の古墳の中では平地、しかも水辺にあるのはこの荒神塚古墳だけであり、築造は6世紀~7世紀初頭と推定される。その位置から、天竜川の源流という交通の要所を支配した武人(役人)の墓だと思われる。後世になって「陵明神」または「十五所明神」と呼ばれ、更に三宝荒神が合祀されると「荒神塚」と名づけられた[10]。
中世成立の文献においては、諏訪明神と洩矢神が争った場所を守屋山の麓(上社本宮周辺)とされているが、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりを両者の戦場とする異伝が見られる。これらの文書では、諏訪入り伝承ゆかりの藤島社を三沢村の荒神塚としている[5][11]。
言い伝えによれば、昔は三沢村の藤島社の対岸に橋原村(現在の岡谷市川岸東橋原区)の洩矢神社があり、この二社から伸びた藤がからまって、天竜川を覆っていた。とある人夫が高島藩主の命令でこの藤を伐採したところ、たちまち狂死してしまったという[12][13][5]。
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