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宇都宮氏の祖 ウィキペディアから
『尊卑分脈』や宇都宮系図などの各種系図上では、藤原氏北家の関白藤原道兼の流れを汲み(道兼流)、道兼の孫である兼房の次男[6]とされる。また、近年の新説として野口実が『中右記』に園城寺(三井寺)の僧侶に「宗円」という僧侶が登場することを指摘した上で、同記を根拠として道兼の弟である藤原道長の流れを汲み、道長の孫である藤原俊家(中御門流)の子で三井寺に入っていた[注釈 5]とする説を提示している[7]。園城寺は前九年の役の際に祈祷の功績があったと主張しており[8]、宗円が園城寺出身であるとすればその主張を裏付けることになる[9]。また、建保2年(1214年)に火災で焼失した園城寺と付属の山王神社を再建した際、宇都宮頼綱(系譜では宗円の玄孫にあたる)が山王神社の再建を一手に引き受けており、宇都宮氏と園城寺の特殊な関係性が推測される[10]。
前九年の役の際に河内源氏の源頼義、義家父子に与力し、凶徒調伏などで功績を認められ、康平6年(1063年)に下野国守護職および下野国一宮別当職、宇都宮座主となるが、もともと石山寺(現在の大谷寺との説もある)の座主であったとも言われ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられている。また、延久2年(1070年)に義家が前九年の役などの功績によって下野守に任ぜられており、その時に宗円も宇都宮座主に任ぜられた可能性もある[11]。
宗円は毛野氏の支配下にあったと推測される下野国一宮において、その神職者より上座に座したことが伝えられており、このことから毛野氏の流れを汲む人物(毛野氏への藤原氏の落胤)と推察されている[注釈 6]ほか、室が益子正隆の娘であったことや、次代の宗綱が八田姓とされる点などから、その勢力は下野国のみならず常陸国西部付近(現在の茨城県下館市付近)にも達しており、芳賀氏、益子氏、八田氏をその勢力下に置いていたと推定されている。
天永2年(1111年)10月18日に没する。
〈藤原北家道兼流〉説
藤原道兼 ┣━━━┳━━━┓ 兼隆 兼綱 兼信 ┃ 兼房 ┃ 宗円(宇都宮氏)
〈藤原北家道長流〉説
藤原道長 ┣━━━┳━━━┓ 頼宗 頼通 教通 ┃ 俊家 ┣━━━━━━━┳━━━┓ 宗円(宇都宮氏)基頼 宗俊
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